By whenis , 17 6月, 2019

呂洞賓は山西省出身の知識人です。しかし、今の大学入試に当たる官吏登用試験を合格した時、すでに64歳でした。出世の道、あまり順調ではありませんでした。

 恐らくそのときの呂洞賓にとっては、もう出世ということをほぼあきらめたのではないかと思います。ある日のことです。呂洞賓は都である長安(現在の西安)の町に来て、ある居酒屋で仙人の漢鐘離と会いました。

 漢鐘離は仙人となるいい原石である呂洞賓に声をかけましたが、すぐに弟子として認めたわけではありませんでした。呂洞賓のほうは、漢鐘離に啓発され、すぐに決心して、道にたどり着こうとしました。しかし、漢鐘離は、「あなたはまだ志を完全に決めていない。この俗世間から離脱するために、更に何度も生まれ変わらなければならない」と言って、その場を去って行きました。

 漢鐘離は消えましたが、呂洞賓はあきらめませんでした。すぐに仕事をやめて隠居し、道を学びました。

 大きな決心を示した呂洞賓を、仙人である漢鐘離はきっとどこかでしっかり観察していたんです。その決心と悟り具合を試すために、漢鐘離は10の場面を仕掛けました。

 最終的には、呂はテストとなる10場面を全部クリアし、漢鐘離の弟子となり、更に、仙人になりました。

By whenis , 16 6月, 2019

漢鐘離は本名ではありません。本名は鐘離権と言います。後漢時代に生まれたので、時代の名前、漢を苗字の前につけられました。

 父親は後漢の総大将です。兄も将軍です。

 鐘離権の誕生についても、神話伝説もありますよ。その母親が出産するところに、巨人が大またで入ってきて、「わしは大昔の神様だ、ここに生まれるはずなので来ている」といいました。すると、まぶしい光が火のようにきらめく中に、鐘離権が生まれてきました。

 そもそも神様の生まれ変わりですから、小さい頃から目立つ存在でした。生まれた時に、すで3歳の子供と同じような大きさでした。大人になると、美男子になりました。

 家庭環境もいいし、鐘離権の人生は順風満帆に見えますが、あまりにも目立つ存在でしたから、嫉妬する人もいます。当時、現在のチベットに当たる吐蕃で、叛乱が起こりました。鐘離権は将軍として出征しました。しかし、大きな権力を持つ大臣、梁冀という人が、大きな手柄を取られるとまずいと、鐘離権を嫉妬して、年老いた人や身体の弱い人からなる軍隊2万人を繰り出しました。

 そのような2万人の軍隊を率いて、勝つわけないじゃないですか!まもなく敵軍に破れ、鐘離権はたった一人で谷に逃げ、やがて山奥のある村に来ました。

By whenis , 14 6月, 2019

これまで取り上げた八仙の人物は、生まれが漢の時代だったり、唐の時代だったりでしたが、曹国舅だけ、唐の後の宋の時代の人物です。

 国舅とは、皇后の兄や弟であることを示す尊称です。八仙の中においては、正真正銘の貴族です。本名は曹玘(そうき)。字は景休(けいきゅう)と言います。どうりで曹国舅は八仙図鑑の中で、一番豪華な衣装、官僚の姿をしています。

 曹国舅は八仙の中で、一番地位の高い人物でもあります。地位が高いですが、彼は豊かな生活に溺れ、貴族の特権を利用することが好きではありません。身分が高いのに、平常心でいられるのはちょっと珍しいですね。

 もちろん、曹国舅一族はみんながみんな、そんなに潔白な人間であるはずがありません。その弟は、皇后の親族であることをカサにきて、農民の土地を奪ったりして、悪行を繰り返していました。

 曹国舅はしょっちゅう弟を忠告しましたが、向こうはまったくその話を聞いておらず、ひいては自分の兄を敵視するようになりました。

By whenis , 12 6月, 2019

この八仙人を仙人チームだとすれば、一番最初に仙人になった李鉄拐は、いわゆるリーダーみたいな存在です。 苗字は李。下の名前は玄といいます。鉄拐というのは、鉄の杖という意味で、片方の足が不自由で、鉄の杖を使いますので、その特徴を捉えて、李鉄拐と呼ばれるわけです。

 李玄はもともとがっちりとした体格の立派な男性でした。そして、「八仙東遊記」によりますと、頭もよく、20歳ごろには、すでに俗世間の事柄に興味がなく、仙人になる道に没頭していました。

 李玄は独自の考えを持っています。「天地は空しい。人生は幻想に過ぎない。財産や名声は心を惑わす毒である。たとえ皇帝となり、世界の富をすべて有したとしても、それは所詮身体以外のものであり、雲のようなものに過ぎない。無から有が始まり、有はまた必ず無になる。人生はまるで夢のようなものだということを悟らずに、ただ自分のこの身体を世に放浪させていいのか!」と、主張しています。

 よく考えるとその通りですね。確かに人間にとって、財産や名声はいくらあっても、死ぬ時には手ぶらで死ぬわけですもんね。だから、自分がこの世に存在した証を残すように、みんな一生懸命頑張っています。でも、李玄の夢は、この世で頑張るのではなく、仙人になるというある意味大きな夢です。

By whenis , 11 6月, 2019

中国では、日本の七福神と似た八仙人の伝説があり、各地で広く伝わっています。日本の七福神は、福をもたらすとして、古くから信仰されている七人の神様です。一般的には、恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人と福袋の七人です。その出身と言いますと、福禄寿、寿老人と福袋三人が中国出身だそうです。また、七福神の代表的な図柄としては、「宝船」がありますが、これは、中国の「八仙渡海図」が元になったという説が有力です。

 中国の八仙、八人の仙人とは、李鉄拐(りてっかい)、漢鐘離(かんしょうり)、呂洞賓、(ろどうひん)、藍采和(らんさいわ)、韓湘子(かんしょうし)、何仙姑(かせんこ)、張果老(ちょうかろう)と曹国舅(そうこっきゅう)の8人です。いずれも民間人から仙人になったもので、それぞれ、様々な伝説があります。中国では八仙人といえば、知らない人はいないほど非常に有名です。

 この8人の仙人はその出身や特徴により、それぞれ老、若、男、女、富み、権力、貧乏、低い身分を代表します。つまり、社会の各階層、あらゆる生活状態の人々を包括しています。八仙人の物語は、唐の時代から伝わりました。でも、構成人物が変わったりしています。明の時代になると、呉元泰という人が、『八仙東遊記』という小説を書きました。その小説によって、ようやく8人の名前が確定しました。

By whenis , 10 6月, 2019

その証拠に、曹操にはたくさん子供がいます。何と、息子だけでも25人いるんです!娘も6、7人ぐらいいて、合計30人を超えています。その25人の息子は、13人の女性が産んだものです。子供を生まなかった女性も含めて、名前が知られている曹操ガールズは、15人を超えています。それから、一夜ぐらい共に過ごした女性も入れれば、まあ、すごい数でしょう。一言で言えば、間違いなく好色男ですね。

 曹操は美人が大好きです。たまたま見かけた美人が気に入れば、その美人が未婚者か既婚者かというのも、まったく気にしないんです。曹操の妻には、人妻が多いです。逆に言うと曹操が人妻を好きだという言い方もありますよ。これらの人妻は、だいたい戦で撃ち取った敵将の妻だったり、なくなった将校たちの美しい未亡人などです。

 「英雄、色を好む」って言うように、やはり権力と情欲、色欲はとても関連性があるようですね。曹操の場合は、土地を征服すると同時に、女性も征服しようとしているんですかねぇ。

By whenis , 9 6月, 2019

好色のせいで、曹操は長男の曹昂、及び最愛の部下である典韋を失いました。ちなみに、典韋は三国武将の中で、とても有名な人です。武術だけ論ずるなら、1位は呂布、2位は趙雲、そして、第3位は、この典韋です。

 では、ご紹介します。

 曹操が荊州の張繍を征伐し、降伏させた。ある日の夜、曹操は酔っ払って、「この城には妓女がいないか?」と、甥の曹安民に聞いた。曹操の好みを熟知している曹安民は「この官舎でとても美しい女性を見かけた」と答えた。聞くと、それは、投降したばかりの張繍の戦死したばかりの叔父、張済の妻である。曹操は連れてきてくれと命令した。すると、女性がやって来た、確かに美しい。

 曹操はすっかり惚れ込んでしまい、女性も従順で男に従った。やがて、張繍はこのことを知って、激怒した。「ひどい!人のおばを弄ぶなんて、この俺を馬鹿にしているんじゃないか」と、曹操を不意に攻撃しようとした。

 しかし、曹操の護衛役に、武芸の優れた典韋がいる。張繍たちは典韋を恐れ、ある計略をたてた。酒宴を開いて、典韋を呼び、彼が酔っ払ったところで、典韋の使い慣れた武器を盗もとした。

By whenis , 8 6月, 2019

中国では、日本の七福神と似た八仙人の伝説があり、各地で広く伝わっています。日本の七福神は、福をもたらすとして、古くから信仰されている七人の神様です。一般的には、恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人と福袋の七人です。その出身と言いますと、福禄寿、寿老人と福袋三人が中国出身だそうです。また、七福神の代表的な図柄としては、「宝船」がありますが、これは、中国の「八仙渡海図」が元になったという説が有力です。

 中国の八仙、八人の仙人とは、李鉄拐(りてっかい)、漢鐘離(かんしょうり)、呂洞賓、(ろどうひん)、藍采和(らんさいわ)、韓湘子(かんしょうし)、何仙姑(かせんこ)、張果老(ちょうかろう)と曹国舅(そうこっきゅう)の8人です。いずれも民間人から仙人になったもので、それぞれ、様々な伝説があります。中国では八仙人といえば、知らない人はいないほど非常に有名です。

 この8人の仙人はその出身や特徴により、それぞれ老、若、男、女、富み、権力、貧乏、低い身分を代表します。つまり、社会の各階層、あらゆる生活状態の人々を包括しています。八仙人の物語は、唐の時代から伝わりました。でも、構成人物が変わったりしています。明の時代になると、呉元泰という人が、『八仙東遊記』という小説を書きました。その小説によって、ようやく8人の名前が確定しました。

By whenis , 7 6月, 2019

四字成語"破鏡重円"(はきょうじゅうえん)は、引き裂かれた夫婦が再び結ばれることを意味します。

 中国の南北朝時代、陳の国の皇女、楽昌皇女が、才能豊かで名が知られる徐徳言と結婚しました。夫婦二人、とても睦まじく暮らしていました。

 やがて、陳の国は衰退し、北朝の隋によって滅ぼされるのが明らかになってきます。戦乱によって、離れ離れになることを案じた皇女は、毎日お化粧の時に使う銅製の鏡を割って、片方を夫に渡し、もう片方を自分が持つことにし、約束しました。毎年の旧暦1月15日、即ち、元宵節の日に、隋の都であった長安、つまり現在の西安の町で、鏡を売りだすふりをし、鏡を互いの再会の証として、相手と再会するまで探していくと。

 まもなく陳は隋によって滅ぼされ、皇女は隋の大臣、楊素の側室となりました。翌年の1月15日、徐徳言ははるばる長安に駆けつけました。市場では片方の鏡を高値で売っている年老いた下僕がいました。徐徳言は懐から自分が持っていた半分の鏡を出して、それに合わせると、確かにぴったり合うのです。

 しかし、探していた妻はいません。すると、徐徳言はその場で詩を書きました。「鏡は人と共に去り、鏡は帰ったものの人は帰らない。鏡にはもう皇女の姿が写らず、ただ空しく月の光が残っている。」

By whenis , 6 6月, 2019

曹操の第一夫人は丁夫人です。最初に結婚した女性です。

 この夫人は子息に恵まれませんでした。曹操の妾で、曹昂を含めて、3人の子供を生んで、若くして亡くなってしまった人がいます。この亡くなった女性の3人の子供を、曹操はこの丁夫人にあげました。丁夫人はとても心の優しい人で、3人の子供を実の子供のように可愛がっていました。

 自分の子供として可愛がった曹昂が亡くなって、丁夫人が一番悲しみました。心が痛むと同時に、夫の曹操を恨みました。「この好色男め、張繍に叛乱させ、曹昂を死なせた!」と、いつもいつも曹操の鼻に指差して罵倒しました。

 曹操も反論できません。でも、いつも罵られるから、さすがの曹操もとうとう我慢の限界になり、丁夫人を実家に送り返しました。2人で冷静になろう、とは言っても、実家に送り返すなんて、ちょっとひどいですね。

 その後、曹操は後悔し、何度も迎えに行きましたが、「もう帰りたくない」と、きっぱり断られました。

 曹操はの人と再婚してもいいと、丁夫人を許しましたが、残念なことに、やがて、丁夫人は病気で実家でなくなりました。