By whenis , 13 10月, 2019

「古典エナジー」、中国古代の名人やその著書などをご紹介しています。長くて広い時空を超えて、彼らのすばらしい知恵を少し汲み取ろうという企画です。今日も、中国春秋時代の有名人の一人をご紹介します。

 中国の春秋時代、史書『春秋』に由来する時代の区分ですが、紀元前770年~紀元前403年までです。その時には、周王朝が崩壊する中、日本の戦国時代の大名に当たる諸侯が、覇権を争いあいました。そんな中、さまざまな思想がぶつかりあい、一躍有名になった政治家や思想家がたくさんでました。今日ご紹介するのは、政治家の物語です。漢の時代に編纂された史書『戦国策』に記録されています。登場する主人公は、鄒忌(すうき)といいます。

 鄒忌(すうき)は、身長が180センチを超え、目鼻立ちがはっきりし、気品のある美男子です。ある日の朝、鄒忌は服を着て冠を整えた後、しばらく鏡を見ながら、自分の姿を見つめていました。そして、隣にいる妻に尋ねてみました。「私とこの町の北に住んでいる徐公(徐君平)を比べると、どっちが美男子と思うか?」彼の妻は答えました。「あなたはとっても素敵ですわ。徐公はどうみてもあなたに及ばないのよ。」

By whenis , 12 10月, 2019

時代背景:

 戦国時代、趙の国では王が亡くなりました。即位した新しい王は年が若く、まだ少年でした。幸い若い王の母親はとても才能がある女性で、王に代わりまつりごとを処理しています。政権交代によって趙国の政治がいささか不安定な時期を狙って、秦は趙へ侵略戦争を仕掛け、一挙に三つの城を占領しました。非常に危ない情勢となったため、趙は仲のいい斉の国に、支援を要請しました。しかし、斉の国は「支援を承諾するが、ただし、条件がある」として、趙太後の末っ子、長安君を人質として斉に送ることを求めます。趙太後は長安君を非常にかわいがっていますので、どうしても許可せず、国の情勢はいっそう危うくなっていきます。大臣触龍がこんな時に、太後を説得し、最愛の末っ子を人質として斉に行かせ、趙の危機を脱しました。

物語:

 趙太後が政権を握ったばかりの時のことです。秦は趙を攻めてきたので、趙太後は斉に救援を求めました。斉は長安君が人質になることを求めて、出兵を控えていました。趙太後がこの条件を承諾しないため、大臣たちは極力諫言をしようとしています。太後は激怒し、「今後、誰かまた長安君を人質に差し出そうと言うなら、その顔に唾を吐いてやりますぞ!」と、周りの人に話しました。

By whenis , 7 10月, 2019

(貨殖列伝・序言)周の時代、軍師姜太公(じゃんたいこう)は、現在の山東省にある営丘という土地を領地としてもらった。その土地はほとんどアルカリ性の貧しい土壌で、住民は少なかった。姜太公は地元の女性に紡績の仕事を与えると共に、魚や塩を外部に流通させることを支援した。すると、各地の住民はひっきりなしにここにやってきた。その後の春秋戦国時代になると、姜太公の領土を基に斉の国ができた。この斉の国で作られた冠や帯、衣服、靴などは全国範囲で売られるようになった。東中国海から泰山までの小さい国々の王が恭しく斉の君主に謁見するようになった。後に、斉は一度衰退したが、その時の名人管仲は太公の政策を修正。物価を調節し、資金を貸し付ける部門を設置した。これによって、斉の桓公は覇王となり、各国の諸侯と何回も会合を開き、世の中のルールを正しい道に乗せた。管仲も税金を集めたりし、斉の家臣でしかないのに、諸侯国の君主よりも金持ちになった。斉の強い国力は後の威王や宣王までの時代にも続いた。

 *姜太公って、どんな人物なのか

By whenis , 6 10月, 2019

司馬遷親子二人とも、太史令、現在の国家図書館の館長という役職ですが、孔子が書いた「春秋」に続き、漢の時代までの新しい歴史書を書くというのが、もともと父親司馬談の夢でした。夢を実現できずに、なくなった父の遺言を聞きいれ、宮刑、男性なら去勢、女性なら幽閉と言う思い罰に処されても、一生懸命「史記」を完成させたのが、司馬遷です。

 司馬遷の運命は、将軍李陵を弁護したのが大きなターニングポイントになりました。李陵は5000人の軍隊を率いて、匈奴を侵攻しましたが、3万人の匈奴軍隊と遭遇し、負けました。やむを得ず投降しました。漢武帝は激怒し、「太史令、どう思うか」と聞きました。すると、司馬遷は、「李陵が死なずに投降したのは、それなりの考え方があるに違いない。いずれ罪を償い、陛下に報おうとしているのではないか」と述べました。武帝は敵軍に投降した裏切り者を弁護するのは、朝廷に反対する行為として、司馬遷を投獄しました。死刑を宣告されましたが、漢の時代は、死刑を逃れるため、宮刑、つまり去勢手術を受けるという方法がありました。司馬遷は歴史書を書くため、屈辱の宮刑を受け入れました。

By whenis , 28 9月, 2019

「史記」は中国では最も重要な歴史書の一つです。全部で130巻52万6500字からなっています。今から2100年ぐらい前、前漢の武帝の時代に、司馬遷によって編纂されました。それまでの史書は、時間軸による編年体或いは、地域別に歴史事件を述べる国別体の二種類でした。司馬遷は「紀伝体」という新しい記述方法を創出しました。これは、人物の伝記を中心に歴史の内容を記述するスタイルです。この意味では、「史記」はただの歴史書ではなく、歴史人物の物語を中心に展開していますので、壮大な歴史小説とでもいえます。後世の歴史書だけではなく、古代の小説や伝記文学、芝居などにも非常に大きな影響を及ぼしました。

 「史記」には、大きく分けると、五つの内容があります。帝王の言動を記述する「本記」;表で系譜や人物、史実を羅列する「表」;社会経済や天文、地理などの記述する書;日本の戦国時代の大名に当たる世襲の王侯の歴史及び特別に重要な人物の事跡を記述する「世家」;及びそれ以外の民間の代表的な人物や少数民族の伝記を記す「列伝」という5つのものです。その中で、一番中心的な内容は「本記」と「列伝」です。

By whenis , 13 9月, 2019

項羽の伝記は何故帝王の伝記を記す「本紀」に組み入れられたのか?

 「本紀」は「列伝」と同様、「史記」の中で、最も重要な構成部分の一つです。12巻からなっています。司馬遷は「史記」で、伝説の黄帝から、漢の武帝まで、およそ3000年の歴史を記しました。

 項羽が帝王ではないのに、その伝記は司馬遷に帝王の枠に入れられました。「本紀」の例外とでも言えます。実は、このような例外は、わずか12巻しかない「本紀」の中に、もう一巻あります。それは、「史記」の中で、唯一女性のために書いた伝記です。主人公は、漢高祖・劉邦の妻、呂太後です。と言うことは、覇権の争いに敗れた項羽でも、劉邦の妻、呂太後でも、皇帝ではないですけれど、皇帝と同じような大きな影響力があるということで、司馬遷は後世の人々、この私たちに伝えたいと思ったと言うことでしょうか?

By whenis , 4 9月, 2019

鴻門の会。これは楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都、咸陽の郊外で会見した話です。劉邦を殺す最高の機会を、項羽は逃してしまいました。項羽は劉邦を殺すチャンスに恵まれましたが、それをしっかり掴むことができず、とうとう、楚と漢の戦いが始まってしまいました。結局、最後に、項羽は劉邦に垓下にまで攻められ、自殺してしまいました。

 鴻門の会は劉邦にとって、まさに生死を分ける瀬戸際と言えます。項羽との直接対決の場となりました。これは司馬遷の『史記』の中でも最も有名な一節です。

 その背景

 前回は、項羽が秦の主力部隊と遭遇し、少数で多数に臨んだ鉅鹿の戦いで勝ち、大活躍したことをお話しましたね。その時に、劉邦は何をしていたかと言いますと、別働隊として強力な敵と遭遇することなく、咸陽に到着し、秦の王を降服させ、関中一帯を占領しました。

 その前に、楚の懐王、この懐王というのは、あくまでも叛乱を起こし、秦を覆すために、項梁と項羽が立てた傀儡王ですから、実権はもちろん、項羽に握られています。楚の懐王は「関中を征した者を関中の王とする」と将軍たちに約束したことがあります。

By whenis , 30 7月, 2019

藍采和は四川省の出身です。韓湘子と似ているところがあって、こちらも普通の人がちょっと理解できない風変わりな人です。

 伝説によりますと、藍采和はいつもホームレス風のいでたちで、片方に靴を履いて、片方が裸足だったりするということです。夏に何枚も下着を着てそれでも寒いと言ったり、冬に薄着で雪に横たわって、暑い暑いと言ったり、その身体から水蒸気のようなものがプンプン出ているということです。

 酔っ払うと、街で長い拍子木を持って、チョーン、チョーンと打ち合わせて、ふらふらしながら、大声で歌います。まるで発狂しているように歌っていますが、実際はそうではない。歌詞は気ままに即興で作られたもので、それをよく聞きますと、俗世間から抜け出した仙人の世界観が潜んでいるということです。

 こうして歌うことで、見ている人がお金をくれて、そのお金で旅を続けました。藍采和はもらった金を紐に通して引っ張って歩きます。酒に使ったり、貧しい人に挙げたりしました。子供の時に藍采和を見た人が、年寄りになって再び会いました。藍采和はまだ昔と同じような容貌で全然変わらないと言います。

By whenis , 12 7月, 2019

韓湘子は唐の時代、韓愈という有名な文学者の兄弟の孫だと言い伝えられています。幼い頃に親が亡くなったため、韓愈に育てられました。

 韓愈のほかの子弟たちは皆、学問に励んでいますが、韓湘子だけ読書が嫌いで、酒ばかり飲み、ぶらぶらしている放蕩者でした。

 20歳の頃、親戚の家を訪ねたはずの韓湘子は、「山や河川などすばらしい大自然に惚れちゃった」と言い残して、実家に帰らず、そのまま行方不明になりました。20年後に、ようやく実家に戻ってきました。ボロボロの服を身に纏い、普段の行動も普通の人と違います。

 韓愈は学校に入れ、生徒たちと一緒に勉強させました。しかし、韓湘子は討論会で一言も話しません。逆に、下僕とギャンブルをやったりしていました。酒を飲み、泥酔すると、馬小屋で3、5日寝たり、道端で寝てしまったりしていました。

 韓愈は聞きました。「人それぞれ長所がある。小売屋でも自分を養う能力がある。君はこのままだと、将来、何ができるか」。