By whenis , 18 1月, 2020

栄華を極めた後、不老不死の霊薬を求めた秦の始皇帝も、結局寿命に勝てず、紀元前210年、ついに死去しました。遺言では、太子の扶蘇を位につけよということでしたが、丞相(じょうしょう)の李斯や側近の宦官(かんがん)趙高などは、自らの利益を守るため、賢い太子扶蘇のかわりに、始皇帝の遺言を偽り、幼い子の胡亥を立てて皇帝にしました。秦二世です。

 その後、趙高は競争者の李斯も殺し、丞相の座にのし上がり、実権を握るようになりました。それでも、趙高は満足が行かず、皇帝の胡亥に取って代わろうと企むまでになりました。ただ、そのためには、宮廷の大臣のうち、どのぐらいの人が自分の言いなりにするか、また、どのぐらいの人が反対するかを確かめなければなりません。すると、趙高はまことに奇態なテストを考え出しました。これによって、自分の威信を試すと同時に、自分に従わない人を明らかにできます。

 ある日、趙高は鹿を二世皇帝にたてまつり、笑いながらこう言いました。

「陛下、いい馬を献上いたします」

 二世はそれを見たら、ぷっと笑い出しました。

 「いやいや、丞相は間違ってるぞ。鹿だろ?」

 それでも、趙高は顔色を変えず、平気にこう言いました。

By whenis , 12 1月, 2020

――学生時代デキの悪かった人が教師になってもいいの?

 "青出于藍而勝于藍"「 青は藍より出でて藍より青し」

 この言葉は、今から2000年前に、中国の戦国時代の思想家、荀子(じゅんし)が学問の重要性を説明するために使った言葉です。青色の染料は藍(あい)という草から作られますが、その色は藍という草の色よりもさらに青い。つまり、もとになった物よりも、それからできた物の方が優れている。学問も積み重ねによって、さらに発展するということを表します。

 そのほかにも、中国ではこれと似たような意味を表す言葉が多くあります。

 "教学相長"「教学あいちょうず」。人に教えることと、人から学ぶことは、互いに作用しあうという意味です。

By whenis , 5 1月, 2020

中国では、昔から伝わる儒教の教え「三字経」には、こんな話があります「養不教、父之過」

これは直訳すれば、「養いて教えざるは父親の過ちなり」。今の言葉に言い換えますと、子供を生んでも躾をちゃんとしなければ父親の過ちだ。昔、中国の女性は社会的な地位が低く、女性は学問や知識、才能がないからこそ、家庭にふさわしいという伝統な道徳観がありました。子供の教育はもっぱら父親の責任といわれました。今は男女平等ですから、今風に言うと、「子供のしつけがよくないのは、親のせい」。この方がより適切なんじゃないかって思います。

By whenis , 4 1月, 2020

解語の花

 「解語の花」文字通り、言葉が解かる花。ここでは花は女性のたとえです。つまり、言葉を理解する美しい女性ということです。

 この言葉は元来、中国の唐の時代の有名な美人、楊貴妃のたとえです。楊貴妃は日本でもよく知られているようですね。玄宗皇帝の寵愛を受け、皇帝は彼女を喜ばせるために、彼女の大好物のライチを、早馬に乗った使いに、今の広東から西安まで、運ばせていました。二人の熱愛を描く詩歌や伝説など、中国にはいっぱい残されてきました。この楊貴妃は、「安史の乱」で、兵士たち怒りを鎮めるために絞殺されたと言われるんですが、実は生き延びて、最後に日本にたどり着いたという驚きの伝説もあります。

 楊貴妃に由来する「解語の花」ですが、唐の皇帝と妃たちが住む宮殿には、太液池という池があります。この池には、白い蓮の花が咲き乱れています。ある日のこと、唐の玄宗皇帝は、この池のほとりで宴会を開き、皇族の人たちと一緒に、蓮の花を観賞していました。幻想的でとても美しかった蓮の花に、人々は見とれて、この花を誉め称えました。すると、玄宗は微笑んで、そばに立っている妃を指差しながら、こう言いました。

By whenis , 4 1月, 2020

「桃源郷」は、今からおよそ1600年ぐらい前に、中国の晋の時代の詩人、陶淵明が「桃花源記」に描いた理想郷です。詩人、陶淵明はその詩、「桃花源記」ならびに序の中で、桃の花に囲まれた別世界を描きました。現在では、桃花源記の詩より、その序文のほうがよく読まれています。

 「桃源郷」という言葉は、日本でもよく使われています。でも、その出典が中国の詩だということを知っている人はどのくらいいるでしょうか?中国では、中学二年生の国語の教科書に載り、暗記を要求されるので、広く知られています。  

 では、ウィキペディアの訳文を引用して、その内容をご紹介しましょう。

 晋の太元年間(376年 - 396年)、武陵(湖南省)に漁師の男がいた。ある日、山奥へ谷川に沿って船を漕いで遡って行った。どこまで行ったか分からないくらい上流まで来ると、突如、桃の木だけが生え、桃の花が一面に咲き乱れる林が両岸に広がった。その香り、美しさ、花びらが舞う様子に心を魅かれた。

By whenis , 3 1月, 2020

夏の名物と言えばやっぱりお化け、怪談、ホラーですよね!映像コンテンツに関する調査によりますと、ホラーを見ると涼しくなると回答した人は38%で、体感温度がなんと平均4.9度も涼しくなると感じているということです。夏になると、特に、蒸し暑い夜、無性にホラーや怪談映画など見たくなる人が、大勢いると思います。

 中国では昔、仙人や狐鬼(こき)、妖怪などを描く怪談が多く伝わっていました。その中で、一番有名なのは、清の時代の怪異小説集、「聊斎志異」です。作者は、蒲松齢です。小説の内容は仙人、幽霊、狐狸の怪異譚で、当時世間で口から口へと伝わっていたものを筆記してまとめたものです。491篇の短編小説から構成されています。

 私は小学5年生の時、古文の勉強として、原文を読みました。その人間界と交錯していた怪異の世界に惹かれながら、背中に冷や冷やと感じた覚えがあります。小説に書かれている話は、さえない受験生のもとに美女に化けた狐やら幽霊やらがやってくるというものが多いです。神秘さや不思議を感じますが、人間よりも善良な狐や幽霊が多いからでしょうか、あまり怖くありません。

 その中で、珍しく本当にゾッとする話もあります。「古典エナジー」、今回は、この真夏の暑さを吹き飛ばすために、「聊斎志異」の中であの最もゾッとする話をご紹介します。

By whenis , 1 1月, 2020

古典エナジー」、今月は、清の時代の怪異小説集、「聊斎志異」に載った話を紹介しています。怪談を聞いて涼しくなってもらおうと言うことで、前回は、ぞっとする話し、「画皮」を紹介しました。いかがでしたか?

 今回では、怖くない話、狐が美人に化けて、恩返しをした話、「小翠」をご紹介します。「小翠」は、狐美人の名前です。

昔、中国の南の方に、王太常(おうたいじょう)という人がいました。まだ小さかった頃のある日の昼、ベッドで寝ていた時、空が曇って暗くなり、大きな雷が鳴りだしました。この時に、一匹の狐が部屋に入って来て、ベッドの下に隠れました。暫く立って雨がやみました。そして、ベッドの下にいた狐はすぐ出ていきました。

 数年後、王太常は科挙試験に合格し、侍御(じぎょ)という官職に昇進しました。そして、王は結婚し、元豊(げんぽう)という子供を授かりました。

By whenis , 31 12月, 2019

高橋:「古典エナジー」。今回も前回に続き、中国の四大奇書に数えられる「西遊記」をテーマにします。

:「西遊記」は日本でも数回もドラマ化或いは漫画化されるなどとても有名ですよね。ただ、日本のドラマ「西遊記」では、女優さんが三蔵法師役を演じていますよね。これ、大多数の中国人はなかなか理解できないんですよ。

高橋:う~ん、今風に言うと、イケメンだからなんじゃないでしょうか。

:まあ、確かに三蔵法師は美貌の持ち主です。中国のドラマでも、イケメン俳優が演じていたんです。でも、どんなに美貌の持ち主でも、女性が演じると、ちょっと違和感がありますよ。

By whenis , 31 12月, 2019

中国の言い伝えによりますと、老子は紀元前6世紀の人物とされます。春秋時代に当たります。でも、あまりにも言い伝えが多くて、老子が実在の人物なのかどうかすら疑われています。老子は、神話上の人物という意見だったり、複数の歴史上の人物を合わせた人物だという説だったり、歴史専門家の意見も様々です。でも、「史記」を書いた中国一の歴史家、司馬遷が老子の伝記を書いています。と言うことは実在の人物として認めたわけですね。

 「史記」によりますと、老子は、姓は「李」、名は「耳」,字は「耼」。現在の河南省にあたる楚の国の出身です。周の国の書庫の管理者だったということです。書庫の管理者って、今風に考えると、国立図書館の館長みたいですよね。老子はある時、周の国勢が衰えるのを感じ、仕事をやめて牛の背に乗って西に向かいました。函谷関を通り過ぎる時、関守の尹喜(いんき)の求めに応じて、上下二巻の書を書き上げました。その書はもしかして、現在に伝わる「道徳経」なのです。老子のすべての思想を綴ったものです。その後、老子は関を出ました。その後の行方を知るものはいません。

By whenis , 29 12月, 2019

孔子は今から2500年ぐらい前の中国の春秋時代の思想家、教育家です。中国だけでなく、世界的にみても最も大きな影響力を持つ人物の一人ですね。「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」有朋自遠方来、不亦楽乎。日本でもよく使われているようですね。友達が遠くから自分に会いにやってきてくれる、それは実に楽しいことだ。友達を迎える自分の喜びを素直に伝えることによって、相手もきっと喜んでくれるでしょう。

 この言葉の出典は「論語」です。「論語」は厳密に言えば、孔子の著書ではありません。孔子の没後、50から100年の間に、弟子たちが孔子と問答をして教えられた言葉や、孔子がいろいろな国をまわった時にその国の君主と行った対話、さらには、弟子が孔子に対して自分の意見を述べた言葉などを集めて全十巻二十編に編纂されたものが「論語」なのです。したがって、「論語」は孔子を中心とする「言行録」です。「論語」という本を開けると、学而第一に登場する最初の教えは、これです。"子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。"

 子(し)曰(いわく)、學びて時にこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや、朋(とも)あり、遠方より來たる、亦(ま)た樂しからずや、人知らずして慍(いきどおら)ず、亦(ま)た君子(くんし)ならずや。