By whenis , 1 12月, 2010

「中国語フィージビリティスタディ」で学習プランを設計するための対象的要素としての中国語について軽く触れました。

その中で「敵を知り己を知れば百戦危うからず。」という有名な孫子の言葉を引きましたが、この言葉を借りるならば、「敵」とは対象的要素を指します。

言うまでもなく、その「敵」とは中国語のことですが、本項ではその「敵」たる中国語について、少しだけ掘り下げて考えていきます。

「中国語とは何ぞや」というテーマについては中国語Q&Aの基礎知識の項目で取り上げているので、ここでは割愛しまいます。

そこで、ここではまず「中国語とは」というテーマから一歩すすめて、「外国人が外国語として学ぶ中国語とは何ぞや」というテーマで話を進めましょう。

外国語としての中国語

およそ外国語として学ぶ言語というものは、規範化された、すごぶる純正なものです。中国語について言えば、基本的に数ある多様な方言は学習対象から外れます。粗野な口語や古文なども上級者の嗜みみたいなもので、大多数の学習者にとってはどうでもいいものです。

By whenis , 30 11月, 2010

前々々項「中国語フィージビリティスタディ」で学習プランを設計するための自己的主要素として「環境」的なるものも取り上げました。

環境と言ってももちろん自然環境ではなく、学習者が身を置く社会環境のことを指します。大まかに言えば社会人だったり、学生だったり、主婦だったり。社会的身分立場によって、学習環境には大きな開きが出てきます。

また、例えば同じ社会人でも、その社会環境には大きな差が存在します。就職したばかりの新人かそれとも30も半ばの中堅か、結婚しているか否か、子供がいるか否か、外回りかそれとも内勤か、通勤時間と通勤手段etc...

これらの要素を考慮せずして学習プランの構築は考えられません。本項ではこの点を織り込んだ学習プランニングについてまとめてみたいと思います。

時間的制約

社会環境は学習者の学習プランニングに大きな制約を与えます。たとえ本人が如何にやる気に燃えていたとしても、学習時間が確保できなければ、身につくものも身につかないことは言うまでもないでしょう。

社会人、学生、主婦......立場環境こそ異なれ客観的に同じものは、与えられた時間は一日24時間のみ、という事実です。

By whenis , 29 11月, 2010

前々項「中国語フィージビリティスタディ」で学習プランを設計するための自己的主要素として「性格」的なるものも取り上げました。

この項目は一般的に通用している教育理論や学習法がおろそかにしている部分であり、挫折者を大量生産する原因になっています。

本項ではこの部分について少し掘り下げて考えていきたいと思います。

性格

まずは「性格」とは何ぞや、というところからはじめましょう。例えば、よく「語学は根気」と言いますが、この「根気」も個人の性格に分類される項目です。

根気がある人はいいのですが、問題なのはわゆる「根気がない人」です。語学は習い事であるため、短期決戦は不可能、必ず長期戦を強いられます。要は続けなければ絶対に身につかないもので、一週間短期集中で......という訳には行きません。

このため、「根気がない人」の場合は、まずはいかに続けるか、というのが最も重要なポイントとなります。この学習法は効率が良い、この勉強法は効果が高い、などという話は二の次です。だって、どんな学習法であれ、一日で身についてしまうものは存在しないのですから。

By whenis , 28 11月, 2010

前項「中国語フィージビリティスタディ」で学習プランを設計するための主要素について簡単にまとめましたが、うち自己的要素の「目的」は対象的要素を確定せしめる非常に重要な要素となります。

平たく言えば、習得の目的をはっきりさせれば、どの能力を重点的に身に付ければよいのかはっきりするということです。

10000時間

この要素を考えるにあたって、まずはじめに理解しておかなければいけないのは、第二外国語として一つの言語を完全に身に付けることは、一般に考えられているよりずっと大変な労力を要するということです。

わかりやすくするため数で考えましょう。10000時間。絶対的なものではなく、あくまでおおよその数字ですが、一つの言語を完全に身に付けようと思うのなら、少なくともこれぐらいの時間は最低限必要になります。

1日1時間で10000日、1日も休むことなく継続しても27年以上かかります。

By whenis , 27 11月, 2010

「達人」を目指すにせよ「マスター」を目指すにせよ、曲がりなりにもひとつの言語を身に付けると言うのは、人生の一大プロジェクトです。

で、中国語習得をプロジェクトと考えるのならば、まず何をすべきなのか......おのずと見えてくるでしょう。

そう、フィージビリティスタディ(ちなみに中国語では"可行性研究"と言います。)です。たかが語学で......と思われるかもしれませんが、計画放棄の選択も含めて、中国語学習の効率効果を最大限のものにするためには、これが不可欠です。

フィージビリティスタディ

では、もう少し具体的に何を行えば良いのか考えてみましょう。

中国語習得までの道のりを構成する要素には多種多様なものが存在しますが、大別すれば「自己」と「対象」に分別できます。「自己」とは学習を進める自分自身の各条件で、プロジェクト構築の主要材料となります。一方の「対象」は、ここでは学習対象となる「中国語」を指します。これは千差万別な自己的要素と比べ変化は限定的で、プロジェクト構築に当たって重要な要素とはなりますが、その評価は簡単です。

By whenis , 26 11月, 2010

前項「中国語の「天才」とバイリンガル」でバイリンガルの語学力について長々と考えてきました。バイリンガルに拘ったのは、彼らの事例が私たちモノリンガル国家でモノリンガル教育を受けてきた日本人の中国語習得法を考える大きな一助となるためです。

私たちは外国語習得について考える際、往々にして表面的な部分にばかり目が行ってしまいます。前項の繰り返しになりますが、一見すると日本語と中国語の両言語を自在に操っているように見える日中バイリンガルも、その大半はどちらか一方の言語は日常会話ができるだけのレベルだったり、両言語ほぼ均等だけど、それぞれについて一般の高等教育を受けたモノリンガルの母語運用力に比べやや遜色が見られるというケースが多々あります。

言語は文化の源

少し話が飛躍しますが、言語はただ単なる会話の手段に止まるものではないことをここで強く申し上げておきます。ただ単に日常会話ができれば良し、とするのならバイリンガル万歳で終わりますが、言語はその社会・国家・民族の文化と伝統の継承媒体であり、その継承発展はその社会・国家・民族を構成する人々の言語力に大きく依存します。

By whenis , 25 11月, 2010

「達人」と「天才」

「中国語の達人」の類似するものとして「中国語の天才」という表現があります。どちらも高い中国語能力を有している人を指していう言葉ですが、その語義から立て分ければ、「達人」が後天的な努力によるものに対して、「天才」は生まれつき備わっていることを指すはずです。

そこから考えれば第二外国語は「達人」という表現の方が適切だと思います。「天才」という表現はIQがべらぼうに高くて、一度目にしたもの耳にしたものは即覚えてしまうようなケースにのみ適応するものなのですから。

まぁ実際にはこんな立て分けは言葉遊びでしかありません。「達人」と「天才」にせよ、つまるところ高い能力を持っているということです。

語学の天才

「天才」という表現はどちらかというと「語学の天才」という表現で使われる方が多いようです。多くの場合は多数の言語を「マスター」した人を指して言います。

「マスター」の定義が実は非常に曖昧であることについては『中国語「マスター」の不都合な真実』で詳述していますが、「語学の天才」たちもその多くはある程度のレベルに達したところで「マスター」として、言語数を積み重ねているケースが大半です。

By whenis , 24 11月, 2010

これまで中国語「マスター」と中国語「達人」という二つの概念の相違について考えてきました。似て非なるこれら概念についてねちっこく話を続けたのは、これが中国語学習において最重要項目の一つとなる「学習目的」に直結するからです。

まずは達人を目指すのか否か。もし達人を志すなら人生を中国語に捧げる覚悟をしてください。そのつもりがないのなら達人になろうなんて考えは持たない方が良いでしょう。

達人になるつもりがなければマスターすれば良いだけの話になります。これなら話は(場合によっては)簡単です。自分に必要となる中国語力を身につければ良いだけなのですから。

似て非なる「達人」と「マスター」

通訳のような中国語専門職でもない限り、必要になる中国語力を身につけるのはそれほど難しいものではありません。必要となる能力というのは往々にして現実的なレベルで切迫性がありますから、なんとしても身につけようという強い学習動機が働くからです。

By whenis , 23 11月, 2010

表現方法

高い理想を掲げる学習者たちが「達人」を目指して日々切磋琢磨する「発音」と「語彙」。それだってこの程度のものでしかありません。もちろん発音は正確であればあるほど良く、語彙数は多ければ多いほど良いことは確かなのですが。

何を隠そうワタクシもそのような一人でした。徹底して発音を矯正し、ひたすらボキャビルに励んでいました。今になって回顧してみると、正直な話、すごい無駄なことをしていたな、と本当に思います。

言語は人の意思を伝える媒体です。最も重要になるのはその「内容」であり、その「表現方法」です。

発音や語彙は「表現方法」の一部分でしかありません。たとえどれだけ発音が美しく、また語彙が的確だったとしても、それがTPOにふさわしくない、非常識な表現であったらすべてが台無しです。

日本と中国では同じ場面でも正反対な表現をすることがしばしばあります。例えば、贈り物をする場合、日本では「たいしたものではございませんが」とか「つまらないものですが」という枕詞を使うのがセオリーですが、中国人にそんなことを言ってプレゼントを贈ったら、その中国人は間違いなくキレるでしょう。

By whenis , 22 11月, 2010

「達人」を目指して日々猛勉強に励む中国語学習者は少なくありません。そんな彼らが重視しているものは何でしょうか。私が見る限り、「発音」「語彙」に力を入れている学習者が多いようです。

発音

発音の良し悪しはその人の中国語能力評価に大きな影響を与えます。人に喩えて言えば外見みたいなものでしょう。外見だけでは人の良し悪しがわからないように、発音だけではその人の中国語能力の高低を測ることはできないのですが、人が往々にして外見で他人を判断してしまうように、中国語能力も発音の良し悪しで判断されてしまう傾向が強くあります。

では、発音は中国語の「達人」の条件となるのでしょうか。

個人的には「正」でもありまた「否」でもあると考えます。発音の良し悪しは大切ですが、絶対的なものではないからです。