By whenis , 11 5月, 2018

中国国家博物館は、天安門広場の東側に建つ威風堂々の博物館。中華民族の歴史が一目で分かります。大小合わせれば、中国には2300の博物館、記念館の「歴史の現場」がある、といわれますが、その頂点に立つのが、この国家博物館です。

 建物は、新中国成立10年後の1959年に建てられました。当初は、「中国歴史博物館」としてスタート、「中国革命博物館」も設けられました。二つが合併して、今の形になったのは、2003年2月末のことです。広さは6.5万平方メートル、08年の北京オリンピックまでには15万平方メートルになる予定です。

 収蔵品は30万点。このうち、陳列されている文物は1万点。ぶらぶら歩きしていたら、2ー3時間はかかるでしょう。今、常設展で人気があるのは、「蝋人形」で知る中国・世界のコーナーです。中国初の宇宙船「神船6号」の飛行士の笑顔に迎えられて展示室に入ると、孔子、孟子、毛沢東、トウ小平といった要人に出会うことができます。

 ニュートン、ピカソ、マリリン・モンローなど故人ばかりでなく、なんとビル・ゲイツもいます。みんな等身大、本当に生きているようです。それぞれの説明文を見ながら、歴史がしのべます。

By whenis , 10 5月, 2018

路東之さんは1962年、北京生まれの画家です。幅広い活動をしている芸術家といってもいいでしょう。学生時代には数多くの美術展に出品して入賞したほか、ルポルタージュも手がけ、中国作家協会のメンバーにもなっています。その路さんが、運営しているのが古陶文明博物館です。北京の古い町並みが残る宣武区右安門内西街にある小さな博物館です。

 ここに展示されているのは、新石器時代から秦、漢の時代にかけての泥細工、瓦(かわら)、陶器です。収蔵品は3000点。このうち、2000点ぐらいが並んでいるそうです。初期のかわらには鳥や動物の姿がかたどられていますが、やがて、太陽や宇宙を連想させる模様も登場します。こうした模様は権力者の象徴、つまり、権力者の家でなければ、かわらは使えなかった、ということでしょう。  

 陶器は、水や酒を入れる容器、食器など生活用品に使われました。その後は、門の扉の部分やお墓にも利用されるようになりました。展示されている一つ一つを見ながらホールを歩いていくと、はるか昔の庶民の生活ぶりがしのばれます。

 他の人が感じられないことをやっていくのが、芸術家の役割であり、仕事だと路東之さんは言います。そして、この博物館は、来年、開館10周年を迎えます。

By whenis , 8 5月, 2018

北京の中心部に入るには、いくつかの門をくぐらねばなりませんでした。東直門、西直門など多くの門は、いま、地下鉄2号線の駅名となって、その名残りを留めています。地下鉄2号線は、北京駅から時計回りで行けば、前門、復興門、雍和宮などを回って戻ってくる環状線です。乗り間違いの心配はないので、北京観光の折には、ぜひ試してみるといいでしょう。

 さて、その宣武門のあった南の地域は、宣南と呼ばれ、古くから文化人や学者、そして京劇の俳優が住み、また商業の中心としても栄えました。故宮の一帯が皇帝やお役人の世界だったとすれば、宣南は庶民文化が花開いたところでもあったのです。

 その歴史が一目で分かるところが、北京宣南文化博物館です。もともとは、長椿寺というお寺でした。

 お寺ができたのは1592年、明の時代です。時の皇帝は、長寿と健康を祈って、「長椿寺」という名前を贈ったそうです。そういえば、椿はなかなか枯れることがなく、いつまでも青々としていて、日本でも長生きのシンボルになっています。回族がたくさん住む牛街に通じる道は長椿街ですが、この名前もお寺から来ています。

By whenis , 6 5月, 2018

前回も少し触れましたけど、兵馬俑博物館の一号館、二号館と三号館は発掘された時間の前後によって名づけられたのです。その規模と役割はそれぞれ違います。規模といえば、一号坑の規模は一番大きく、二号坑は一号に次ぎ、三号は最も小さいです。兵馬俑は始皇帝の都を守備した警備軍を模して作られたもので、この三つの坑の役割分担ももちろん違うのです。1号坑は右軍、2号坑は左軍、そして、3号坑は指揮部となっているそうです。

 兵馬俑軍団の編成について、兵馬俑博物館の李乃夫総工程師は「左軍と右軍は均整のとれた配置ではなくて、軍隊の種類にしたがって並べてあります。例えば、右軍、すなわち、一号坑には主に歩兵と馬車を扱う車兵ですが、二号坑には歩兵や車兵それに騎兵などを主としています。一号には騎兵は見つかりませんでした。また、三号坑は警備の隊列で構成されていて、二人が向かい合って立っていて、真ん中は人を迎える道となり、まるで、警備部隊のようです。」と語りました。

By whenis , 3 5月, 2018

秦の始皇帝は生前中国を統一した偉大な皇帝です。死後にも、生前に持っていた物をすべて地下に持ち込み、これまでにない豪華な陵墓を建てました。60平方キロに及ぶ始皇帝の冥土は、始皇帝がいた都ー咸陽を真似して作られたのですが、内の城壁、内城と外の城壁、外城もあり、域内にはたくさんの副葬坑があります。これまで、本当の意味の考古発掘は行われていませんけど、実験的な探測によって、すでに大きな発見がありました。

 兵馬俑は地下におよそ2000体ぐらい埋葬されたあと、前世紀の1974年にやっと発見されたそうです。実は「やっと発見した」という言い方は正しくないかもしれません。昔もきっと発見したことがあったのでしょうが、ただ発掘をしなかったといったほうが正しいでしょう。兵馬俑を発掘した際に、漢の時代から近世までの貴族や庶民のお墓も、その範囲内に見つかったそうですので、きっと昔にも兵馬俑を掘り出した人がいるかもしれません。

By whenis , 1 5月, 2018

秦の始皇帝陵の地下宮殿のレイアウトと埋蔵状況などに関しては、史書でたくさんの記載が残っています。漢の時代の歴史学者ーー司馬遷は『史記』の中で 、「穿三泉,下铜而致椁,宫观百官,奇器异怪徙藏满之。以水银为百川江河大海,机相灌输。上具天文,下具地理,以人鱼膏为烛,度不灭者久之」 と書いてあります。この古文の意味を日本語に訳してみますと、「秦の始皇帝の陵墓は、非常に地下深く掘られています。まず、溶かした銅の液で床を埋めた後、棺おけを置きます。地下宮殿には、文武百官の席を設けただけではなく、数え切れないほどの宝物を所蔵しています。また、盗掘を防止するため、宮殿の門に矢などの防止用の道具が設置されています。さらに、陵墓内で水銀による海や川を作り、機械の力でそれを流動させるようにしており、お墓の吹き抜けには太陽や月、星などを飾り、地下には実物を真似した山水やお城や村などの風景も見られます。そして、所々に人魚の油で火を点した(ともした)蝋燭があり、これらの蝋燭は長く点しても消えません。」ということです。

By whenis , 30 4月, 2018

秦の始皇帝陵と兵馬俑今日から1987年に世界文化遺産として指定され、また世界八大奇跡のひとつとも言われます。秦の始皇帝陵と兵馬俑は万里の長城などと同じように、中国で初めて指定された世界遺産のひとつとして、中国の文化史上では特に重要な地位を占めています。中国の明・清以後の歴史を偲ぶなら、北京へ;そして、明・清以前の歴史を考察しようと思うなら、西安に行ってください。という話がありますから、西安は実に歴史的雰囲気が濃くていいところです。

 秦の始皇帝陵と兵馬俑はほんとうに世間を驚かせる大きな発見です。特に、秦の始皇帝陵と言いますと、秦の始皇帝の陵墓で、今まで、すでに2000年あまりの歴史を持っています。中国では紀元後の歴史は漢の時代の司馬遷をはじめとする歴史学者たちの努力によって、よりはっきりするようにしました。でも、漢以前の歴史に関する記載は不明なところが多くて、例えば、兵馬俑について、歴史上では文字によるあかしなど何も出てきていません。

By whenis , 29 4月, 2018

北京動物園の裏、つまり北側には幅10メートルほどの川が流れています。高層ビルが立ち並ぶ北京の街を車だけで移動していると気づきませんが、歩いてみると、ホットするこのような場所が見つかります。春らんまんのいま、人々は川べりで糸を垂れ、魚釣りを楽しんでいます。

 この川、実は頤和園から流れ出ているもので、川沿いには10以上のお寺がありました。しかし、いまはごくわずか、真覚寺は数ない一つです。地図を見ても、なかなか捜しにくいのが、逆に魅力かもしれません。

 真覚寺は明代、永楽年間に建てられたラマ教のお寺で、中央部分に5つの塔を有するお堂が作られました。このため、五塔寺の名で親しまれ、今日に至っています。

 北京石刻芸術博物館は、この寺の敷地を利用して1987年に設けられました。改革開放の初期のころで、北京は大規模な都市改造があちこちで行われていました。一方で、遺跡、古い町並み、家の玄関の門といったものが壊されていく時代でもありました。こうしたものを残すためにも、この博物館は作られたのです。

By whenis , 28 4月, 2018

中国文学界の巨匠ともいっていい老舎。今回の博物館めぐりは、「老舎記念館」の紹介です。彼が新中国の成立後から、1966年に亡くなるまでの16年間を過ごした場所が、記念館になっています。

 王府井を北に向かってぶらぶら。15分もすると賑やかさが薄れ、灯市口大街と交差します。右側は大きなホテルです。この交差点を左に曲がると、南北にいくつもの胡同が現れます。豊富胡同19号、この中の四合院で老舎は暮らしていました。建物は1984年に市の文化財に指定され、その後、遺族が老舎の愛用品やいろんな資料とともに市に寄付し、これを受けて1999年に老舎記念館として一般公開されるようになりました。  

 老舎は1899年2月3日の北京生まれ。本名は舒慶春といい、生まれた翌日が立春だったことから、家族はこの名前をつけたそうです。家は貧しく、親戚の援助で小学校に行くことができました。こうした環境が、後に老舎の作品に影響を与えた、といえるでしょう。感謝の気持ちをこめて、こんな文章を残しています。

 「彼がいなかったら、私は一生入学できず、本を読むこともできないかもしれない。彼がいなかったら、私は永遠に、他人を助けてあげることはどんなに楽しく意義があることかに気づかないかもしれない」

By whenis , 27 4月, 2018

北京の伝統芸能に京劇があります。きらびやかな衣装、ドラも加わった音楽。言葉が分からなくても、十分に楽しむことができます。北京の劇場で観覧可能ですが、短い日程で北京ツアーにやってきた人は、切符の入手や問い合わせが面倒なため、尻込みする人も多いようです。

 そんな人にうってつけの場所、北京戯曲博物館を紹介します。京劇を毎日上演している常設劇場ともいえます。宣武門のあった南の地区、つまり宣南地区が庶民文化の発祥の地、と紹介したことがあります。京劇は清の時代に始まったもので、最盛期の北京には20を超える劇場があり、そのほとんどが宣南地区に集中していました。  

 その宣南には、全国各地から文化人や商人が集まってきました。そして、宿泊したり情報交換のための場所、日本流にいえば県人会の寮のような施設が次々と建てられました。

 そのひとつに湖広会館というのがありました。1807年に建てられたもので、湖北省と湖南省出身者が寄り添う場所になりました。新中国の成立後は一般の住宅や事務所として使われてきましたが、10年ほど前、改修を加え、北京戯曲博物館として衣替えしたのです。