1927年上海光華大学、大夏大学及び南京中央大学で教鞭を執り、同年、胡適、梁実秋らと新月書店を創設、月刊『新月』の編集長となりました。(これが「新月派」という名称の由来)主なメンバーは胡適、徐志摩、梁実秋、陳源であり、その多くは『現代評論』派のメンバーでもありました。政治的には公然と共産党に反対し、革命に反対したとされています。文学的には、ブルジョア的人間性論をたたえ、プロレタリア革命文学を批判しました。
1931年、南京から北平(今の北京)へ向う途中、飛行機事故で亡くなりました。36歳でした。
1918年渡米、クラーク大学で歴史学と銀行学を、そしてコロンビア大学で政治学を学びました。1920年9月に、コロンビア大学修士号を取得した後、イギリスに行き、ロンドン大学で政治経済を学び、そこで一人の若い女性、林徽音に出会いました。この17歳の少女は元北洋政府の司法総長・林長民の娘で 、その清楚な美しさと感受性豊かな心に、徐志摩はたちまち夢中になってしまいました。