By whenis , 1 11月, 2018

この駅は陶然亭公園のすぐそばにあります。古くから陶然亭の周りには、名勝地が数多くありました。北西には龍樹寺、東南には黒龍潭、龍王亭、刺梅園、祖園、南西には風氏園などなど。現在、陶然亭公園内には慈悲庵と呼ばれる建物があります。元代に建てられたもので観音庵とも呼ばれています。清の康煕34年(1695)に、瓦や陶器を焼く工場がつくられ、この時、慈悲庵の西部に小さなあずま屋がつくられました。このあずま屋には、白居易の詩からとった「陶然」の2文字が与えられました。そして1952年に陶然亭公園が完成し、古代建築と現代の造園芸術が一体となった新型都市園林となりました。 

観光スポット

陶然亭公園(陶然亭公园)

 公園には、3つの湖と7つの丘があり、自然豊かな趣がある公園です。公園内は慈悲庵をはじめとして、雲絵楼や華夏名亭など中国の伝統的な風景を楽しめるスポットがあります。

入園料:2元/人 入園時間:6:00~21:30

アクセス:陶然亭駅を出て、自新路東口駅から613番バスに乗車。太平駅下車。

徒歩70メートル。

黒窯廠通り(黑窑厂街)

By whenis , 30 10月, 2018

清代末、このあたりは賑やかな繁華街でもありましたが、同時に北京の刑場でもありました。繁華街の中に刑場があるのは、中国では古くから見られるもので、刑の執行を民衆に示す効果は大きいものでした。この刑場は、今日の鉄門胡同のやや南西よりの通りにありました。

 清朝が鉄道を再建する前に、ほかの省からやってきた人たちが北京に入るためのルートは2つあり、1つは京杭大運河に沿った通州を通る道、1つは盧溝橋を通り、広安門から入る道です。広安門をくぐると、そこが菜市口で、この一帯には各省や各県が建てた集会所や商家が立ち並び、明清時代の重要な商業拠点でした。

 菜市口の駅から半径2キロ内には、文化的価値のある古い建物が数多くあります。徐旧居、南海会館、紹興会館、京報館など。菜市口の刑場の真向かいにある薬局の鶴年堂は長い歴史をもった老舗で、「先に鶴年堂ができ、それから菜市口ができた」という言葉もあります。1899年夏、金石学と古文字学の研究者が鶴年堂で薬を調合してもらったことがきっかけで、甲骨文字が発見されました。

 観光スポット

 中山会館(中山会馆)

By whenis , 29 10月, 2018

西四は、西四牌楼の略称で、かつてここには十字路の東西南北に1つずつ牌楼がありました。3本の梁と4本の柱で建てる四柱三楼式の牌楼で、南と北には「大市街」、東には「行仁」、西には「履儀」の文字が掲げられていました。これら4つの牌楼は残念ながら、1954年に道路拡張工事の際に撤去されました。この辺りは、明清時代は、賑やかな繁華街で、やはりここにも刑場がありました。繁華街のそばに刑場を置くのは、見せしめの目的があったそうです。そんなおどろおどろしい歴史を持つ、この場所も北京市内の文化保護地区の1つで、元大都城の誕生とともにすでに700年余りの歴史を持った場所です。

 観光スポット

 広済寺(广济寺)

 広済寺の正式な名称は、「弘慈広済寺」で、宋末期に建てられた北京市内の古刹の1つです。中国仏教協会が置かれています。元代と、1931年に火災に見舞われましたが、その度に再建され、現在に至っています。

 歴代帝王廟(历代帝王庙)

By whenis , 28 10月, 2018

新街口駅(新街口站)

1953年に出版された『宛署雑記』に「新街口」という地名が初めて出てきます。「新しく開かれた町」という意味でこの名がつけられました。ここはT字路になっており、西を向けば、西直門の牌楼、北を向けば高くそびえた北城の壁が見え、そして南には西四の牌楼がありました。新街口は、南北を結ぶ大運河の終点であった積水潭、また護国寺にも近いため、繁栄した場所でした。西単、前門の賑やかさには及びませんが、商店が立ち並び、人々が集まる場所でした。現在の新街口も道の両側に小さい店が立ち並び、特に楽器店が多いのが特徴です。

 観光スポット

By whenis , 27 10月, 2018

北京動物園最寄の駅です。北京動物園は、世界で3番目に大きい動物園です。すでに100年以上の歴史があり、1906年(清光緒32年)に開園しました。園内には1940年につくられたサル山がありますが、開園当時、ここにいた猿の子どもも、すでに70から80歳のお爺さんザルです。

 北京動物園は多くの「一番」を持っています。"一番早く開園した動物園"、"一番大きい都市動物園"、"来園者の数が一番多い動物園"などなど。またここでは、たくさんの動物たちに会えるだけではなく、文化遺産も見られます。園内には、暢歓楼や、幽風堂、宋教仁記念塔など、動物園の歴史を見守ってきた文物があります。

 駅周辺には、北京展覧館や北京天文館、動物園服装市場など、多くの人でにぎわうスポットが集中しています。

 観光スポット

北京動物園(北京动物园)

By whenis , 23 10月, 2018

「里」という字が地名として使用され始めたのは春秋戦国時代で、最も盛んだったのは前漢から唐時代にかけてでした。しかし、北京においては「里」の字を地名として用いたのは民国時代で、1938年に出版された『最新北平全図』の中にその文字を見つけることができます。平安里の誕生は庄親王府と深い関係があります。清王朝末期、多くの旗人(旗とは支配階級だった満州族がつくった社会、軍事組織。八旗制度と呼ばれる。このいずれかに所属した満州人、モンゴル人、漢人は"旗人"と呼ばれた。)がいましたが、その中には皇帝の親類もいました。生活の支えを全て失い、食いつなぐために全ての財産や家を売らなければなりませんでした。庄親王の溥緒もそのうちの一人でした。1920年代、天津軍閥の李純とその弟の李馨が20万元相当の銀で、溥緒から住宅を買い上げました。そして彼らはここに新しい住宅を建設し、「平安 里」と名づけました。

 平安里交差点の北側には護国寺通りがあり、600メートルほどの通りは明、清時代には有名な商店街の1つでした。

 観光スポット

 護国寺(护国寺)

By whenis , 21 10月, 2018

中国国家図書館最寄の駅です。中国国家図書館は、もともとは北京図書館と呼ばれ、1909年9月9日に建設が始まった京師図書館がその前身です。目下、世界最大の中国語文献の収蔵基地であり、アメリカ国会図書館、モスクワ図書館とともに世界三大図書館と言われています。1987年に第一期工事が終わり、ブルーを基調とするビルが完成しました。2008年の第二期工事として、図新館が建設されました。図書館の南には風光明媚な紫竹院公園が広がり、東には道を隔てて首都体育館があります。

 観光スポット

 紫竹院公園(紫竹院公园)

 紫竹院公園と国家図書館は、一本の河をはさんで建っています。この場所は悠久の歴史を持っています。元代に水利学者の郭守敬が水を引いて、湖をつくりました。明代に北岸に紫竹院が建てられ、清代に江南の水郷風景のような景観が備えられました。新中国成立時には荒廃し、一面の荒野となりましたが、その後整備されて、紫竹院公園となり、今も多くの観光客や北京市民が訪れています。

 五塔寺(五塔寺)

By whenis , 20 10月, 2018

文献考証によると、魏公村は元代にはすでにあり、明、清時代そして今へと続いています。でも、明、清の時代は畏吾村と呼ばれていました。魏公村の成り立ちは、古代ウイグル人と深く関係しています。元代、フビライの腹心で丞相だった古代ウイグル人の蒙速思は、死後、現在の魏公村付近に葬られました。その後一族も同じ地に葬られ、次第にここは一族の墓地へとなり、規模が広がっていきました。やがて、その周りに古代ウイグル人が住み着き、畏吾村へとなったのです。民国時代に入り、人々の考えも変わり市内の古い呼び名も変更され、最終的に魏公村となりました。

観光スポット ーー大慧寺

 大慧寺は1513年に建てられすでに500年の歴史があります。境内には、銅製の仏像があるため、「大仏寺」とも呼ばれています。大悲殿には、明代の3大芸術があります。建築、彩色された塑像、絵画です。これらは今もなお鑑賞価値と芸術的魅力を持っています。このほか大殿の東、北、西の三方の壁に前には28体の仏教を守る神像があります。1957年に北京市の重要文化財に指定されました。

By whenis , 19 10月, 2018

中関村駅(中关村站)

 中関村という言葉を聞いて、人々が真っ先に思いつくのは、デジタル製品やハイテク企業、または中国のシリコンバレーといった類の言葉でしょう。でも中関村の名前の由来について知る人は少ないでしょう。考証によれば、明時代に源を発し、宮廷の宦官が今の中関村一帯を買い上げ、共同墓地をつくりました。明清時代に宦官は「中官」と呼ばれていたため、人々はこの墓地を「中官墳(中官の墓)」と呼びました。このほか宦官が廟や隠居のための庄園をつくり、「中官の村」と呼ばれたという説もあります。1980年10月23日に、中国科学院の研究員、陳春先氏が他に先駆けてここに民間の科学機構を設立しました。ここから「中国のシリコンバレー」と言われるようになった中関村の新しい歴史が始まったのです。

 グルメ

 中8楼

 雲南の特色を生かした料理と軽食のお店。竹に入ったお酒や、米線(米で作った面)が人気。

 場所:北京市海淀区中関村広場歩行街R17号

 焦葉(焦叶)

By whenis , 17 10月, 2018

北京大学東門駅(北京大学东门站)

 もし、歴史を遡り他の可能性を選択していたとしたら、今日の北京大学東門駅は、燕京大東門駅と呼ばれていたかもしれません。燕京大学は1919年に設立され、その前身はアメリカ教会が北京に設立した3つの教会学校でした。匯文大学、華北協和女子大学、通州協和大学の3つの大学は1920年に合併し、燕京大学となりました。初代校長に就任したのは、南京で金陵神学院で司教を務めていたジョン・スチュワートでした。

 スチュワートは西側で調達した資金で、北京の西にあった清王朝付属の園林を買い上げました。そしてアメリカから建築家を呼び寄せ、中国で最も大きく、環境に恵まれた美しいキャンパスをつくりました。1952年に全国で学校に対する調整が行われ、燕京大学は解体、文科、理科は北京大学へ、工科は清華大学へと吸収されました。当時のキャンパスは現在の北京大学のキャンパスとなっています。

 観光スポット