黄河文明:新石器時代の仰韶から殷・周の青銅器文化
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黄河文明は黄河の中・下流域で栄えた古代文明で、新石器時代の仰韶(ヤンシャオ)文化から竜山(ロンシャン)文化をへて、殷・周の青銅器文化に発展していった。 1921年、スェーデンの地質学者・考古学者のアンダーソン(1874~1960)は河南省の仰韶村で彩文土器を発掘した。翌年の発掘によって竪穴住居跡が発見され、また多くの磨製石斧・彩陶などの土器が出土した。アンダーソンは周口店洞穴の発見者であり、北京原人(シナントロプス・ペキネンシス)の発掘の端緒をつくった人物でもある。
前5000年~前4000年頃から黄河の中・下流域の黄土地帯でおこったこの中国最初の農耕文化は最初に発見された遺跡にちなんで仰韶(ヤンシャオ)文化と呼ばれる。 1954年に発掘された西安の東にある半坡(はんぱ)村の集落遺跡は後期に属するが、仰韶文化の代表的な遺跡である。
仰韶文化期の人々は粟・黍を栽培し、豚・犬を飼い、また鹿などの狩猟も行った。主として竪穴住居に住み、集落を形成し、石斧・石包丁などの磨製石器や彩陶を使用した。仰韶文化を代表する出土品は彩陶である。そのため仰韶文化は彩陶文化とも呼ばれる。彩陶は薄い赤色の地に赤・白・黒などの色を使用して文様が施されている素焼きの土器で甕・鉢・碗型のものが多く、焼成温度は約1000度位である。
1930・31年に山東省歴城県竜山鎮の城子崖遺跡が発掘され、黒陶文化の存在が明らかになった。黒陶文化は代表遺跡の竜山にちなんで竜山文化とも呼ばれる。黒陶は薄手で精巧に作られた黒色の土器でロクロも使用され、器形は鬲(れき、湯をわかしたり、蒸すのに使う)・鼎(てい、物を煮るのに使う)などの三足土器が特徴的だが多様である。焼成温度は約1000度以上である .
竜山文化期(前2000~前1500頃)になると農具・農業技術はさらに進歩し、その結果、仰韶文化期よりもはるかに大きな集落(邑)が形成されるようになった。この大集落がのちに都市国家に発展していく。
黄河中・下流域に多くの都市国家(邑)が出現して争う中から、多くの都市国家を支配する有力な王が出現するが、今日確認されている最古の王朝は殷である。
中国の漢代の有名な歴史家・司馬遷は「史記」のなかで、中国の歴史を三皇五帝から始め、夏・殷・周・秦・漢王朝の歴史を記述している。三皇五帝(中国史上の伝説の帝王)のうち三皇は伏羲(ふくぎ、漁労の発明者)・神農(農業の発明者)・燧人(すいじん、火食の発明者)の三人の神をさし、この三皇に続いて五帝について記述している。
五帝は黄帝(漢民族の祖先)・せんぎょく(黄帝の孫)・帝こく(黄帝の曾孫)・尭・舜で、特に尭・舜は理想の聖君主とされ、尭・舜の世は理想的な政治が行われた時代と讃えられた。尭は舜に位を譲り、舜は黄河の治水に功のあった禹に位を譲ったとされている。 禹は黄河の治水に成功して、舜から譲位されて帝位について夏王朝を創始した。
夏王朝は以後17代450年間続いたが、暴君桀(けつ、殷の紂とならんで暴虐な君主の代名詞となる)があらわれ「酒池肉林」にふけり、暴政を行ったので殷の湯王に滅ぼされたと司馬遷の「史記」には書かれているが現在のところ実在を証明する遺跡等は発見されていない。現在の段階では伝説上の王朝ということになるが、将来実在を証明する遺跡等が発見される可能性はあると思われる。従って現在確認できる中国最古の王朝は殷である。しかしその殷の実在が証明されるようになったのは20世紀に入ってからである。
1899年、王懿栄という学者がマラリヤの持病に悩まされ、「竜の骨」が特効薬で良く効くと教えられ、薬屋から買ってきた。「竜の骨」は実は地中から掘り出された動物の骨で、よく見ると骨の表面に文字らしきものが刻まれていた。そこで薬屋に行きその出所をやっと聞き出し、「竜の骨」の蒐集に務めた。しかし薬屋は出所の秘密を守るために他所の地を教えていた。
王氏と友人の劉氏は苦心の末、安陽県の郊外の小屯村(殷の後半の都があった所)を発掘し、そこから甲骨文字(漢字の原型になった文字)を発見した。王氏と劉氏は甲骨文字を発見したが、その解読は羅振玉・王国維の二人の学者によって行われた。さらに羅振玉は小屯村を発掘し、甲骨のほかに青銅器や玉器、骨角器、石器などを発掘した。
羅振玉・王国維は辛亥革命(1911)後、京都に亡命し、京都大学の学者らと共に甲骨文字の研究・解読をすすめ、1913年に甲骨文字の解釈に関する本を出版した。発見された約3000の甲骨文字の半数近くが彼らによって解読された。その中で羅氏は甲骨に刻まれた王の名が、司馬遷の「史記」などに残っている殷の系図に出てくる王の名とほぼ一致していること、小屯村が殷の末期の都であることなどを論証した。
1928年から1937年にかけて殷墟(河南省安陽県小屯村を中心とした殷の都の跡で殷の時代には「大邑商」(大きな町、商)と呼ばれていた)の大発掘が中央研究院によって15回行われ、世界中の注目を集めた。しかし1937年日中戦争の勃発にともない、戦場となったために発掘はすべて中止された。
殷墟の発掘により宮殿跡の周辺から竪穴式の住居跡、大小1000以上の陵墓をはじめ、甲骨・青銅器・象牙細工・白陶・子安貝(東南アジア産の貝で貨幣として使用された)・鼈甲などが多数出土した。なかでも殷王の墓とされる大型の地下墳墓は約10メートルの地下に掘り下げて作られており、19メートルと14メートルの長方形で、中央に王の棺がその周辺に青銅器、武器、武具が埋められていたが、特に人々を驚かしたのは数100人もの殉死者であった。
殷王朝は伝説では夏を滅ぼした湯王から30代続き、紂王(ちゅうおう)の時に周に滅ぼされたとなっている。しかし、前半の歴史は不明で、第19代の盤庚(ばんこう)(殷墟に都を移した王)以後の250年間の歴史が発掘によって究明されている。王位は初め兄弟相続であったが後に父子相続に変わったこと、殷王は政治・軍事・農業など国事をすべて占卜によって決定する神権政治を行ったことなどが分かっている。
殷の王は黄河中流域の諸都市国家連合の盟主として黄河流域を支配したが、次第に専制的となった。最後の紂王は妲己(だつき)という美女を寵愛し、人民から重税を取り立て、宮殿を造営し、広い庭を造営して酒池肉林、連日宴をはり、人民を苦しめた。その頃、西方の陜西省で勢力を持ってきた周の武王が、殷の支配に不満を持つ諸部族と連合して牧野(ぼくや)の戦いで紂王をうち破った。敗れた紂王は自殺し、約500年続いた殷はついに滅亡する。
殷の文化を代表するのは高度な青銅器である。青銅器は当時とても貴重なものであったので主に祭器や武器に使用された。殷の青銅器はとても精巧なもので、とても3000年も前に作られたとは思えないほどで、当時の技術の高さが想像できる。殷は農業を主としているが、農具には貴重な青銅器は使用されず、まだ石器や木器が使われていたので生産力は低かった。
殷の後半の都は「商」と呼ばれていたが、殷の滅亡後「商」の住民は各地に離散した。そして土地を持たない彼らは物を売買する事で生計を立てる者が多かった。そのため「商」の人々が物を商う人、すなわち商人と呼ばれるようになったと言われている。
陜西の渭水流域から興った周(前1027頃~前256)は、はじめ殷に服属していたが、有徳者と伝えられている文王が諸侯の信頼を得て、領土を拡大し、都を鎬京(現在の西安付近)に移し、さらに東進政策を押し進めたが亡くなり、子の武王(姓は姫、名は発)に引き継がれた。
武王は、渭水のほとりで釣りをしていた太公望呂尚と出会い、彼を軍師・総司令官として牧野の戦いに勝ち殷を滅ぼしたというのは有名な話で、釣りの上手な人を太公望というのはここに由来している。また伯夷・叔斉の兄弟が武王に「父(文王)の葬りも済ませないうちに戦争を始めるのは孝行といえるか、臣として君を殺そうとするのは仁といえるか」と諫め、周の世になると周の米を食べることを拒み、首陽山に隠れてわらびを採って暮らす中で餓死したというのも有名な話である。
武王は周王朝を創建し、在位7年で亡くなり、その子成王が後を継いだが、まだ幼少だったので、武王の弟・叔父の周公旦が成王を補佐し、当時東方で起きた殷の反乱及びそれと結びついた東夷(山東省辺りに住む民族)を征討し、領土を東方から長江流域にまで拡大し、東方の統治の拠点として洛邑(現在の洛陽)を建設するなど周の基礎を確立した。また彼は周の封建制度の創始者とされている。
周の封建制度は、殷の制度を模倣して、一族・功臣や各地の土着の首長を諸侯とし、公・侯・伯・子・男の五等にわけて、この爵位に応じて封土(ほうど)(領地)を与え、その地を支配させるとともに、彼らに軍役(周王のために兵を率いて戦うという軍事的な義務)と貢納の義務を負わせる政治組織をいう。周の王や諸侯のもとには、卿・大夫(上級の家臣)・士と呼ばれる世襲の家臣がいて、それぞれ封土を与えられ、その地の農民を支配した。
日本やヨーロッパにも封建制度があった。ヨーロッパの場合、主君と家臣の間にある、家臣は主君に忠誠を誓い、主君は家臣を保護するという関係は個人と個人の間での契約(契約だから主君が約束を守らない場合は、家臣も約束を守らなくてもよい)の上に成り立っていた。
これに対して周の封建制度では、主君と家臣の関係は、本家と分家の関係でつながれているのである。これが周の封建制度の特色である。中国では宗族が重視される。宗族というのは父系の同族集団、つまり同じ祖先から分かれてきた同じ姓の家で共通の祖先の祭祀を行い団結する、そして同姓不婚(同じ姓のもの同士は結婚しない)という原則があった。そして宗族間では本家が優越し、分家は本家を中心に団結しなければならないという宗法(そうほう)というきまりがあった。
周の封建制度では周の王(本家)と一族の諸侯(分家)の関係にもそれが当てはめられる、分家の諸侯は本家の周の王を中心に団結しなければならないという社会のきまりを周の支配に利用したということで、氏族的性格が濃いとか血縁関係を重視しているのが特色だといわれる。
4代目の昭王は東南地方に支配権を確立しようとした。5代目の穆王は西北地方に勢力を拡大しようとして犬戎(けんじゅう、周代に陜西・山西の山地にいた遊牧系の未開民族)を討った。10代目の厲王(れいおう)は都の反乱のため東方に逃亡し、王位は一時空位となった。11代目の王宣王は中興の英主とされるが、次の12代目の幽王は西周を滅ぼした暗君とされる。
幽王は皇后と太子を廃して、寵愛した絶世の美女褒じが笑わないのでの笑わせるために外敵の進入を知らせる狼煙台ののろしを上げさせた。すわ一大事と四方から諸侯がはせ参じたが何事もないので呆気にとられた。彼らの間抜けな顔がおかしいと褒じが初めて笑った。その笑顔をみたい一心の幽王はその後も何度ものろしを上げた。もちろん諸侯達はのろしを信じなくなった。
前770年、西北から犬戎が侵入してきた。幽王は必死になってのろしを上げるが諸侯は誰も集まって来ない、幽王は犬戎の手に掛かって殺された。都の鎬京は犬戎の手に落ちた。諸侯は都を捨てて東に逃げ、洛邑を都とし、前の皇太子を平王として即位させた。以後は東周の時代と呼ばれる。
周は800年近く続いた王朝であるが、中国史ではこの前770年の出来事を境に、前1027年頃から前770年までの都が鎬京に置かれていた時代を西周、そして都が洛邑に移されてから以後の前770年から前256年までを東周の時代と呼ぶ。さらに東周を前半と後半に分けて、前半の前770年から前403年までを春秋時代、後半の前403年から前221年までを戦国時代と呼ぶ。