中日成語・ことわざ

中日成語・ことわざ

By whenis , 18 8月, 2009

  中国では旧暦の八月十五日が中秋節であり、中秋節は春節(旧正月)、端午節と共に、歴史が最も長く、民族の特色を最も有する伝統的な三大祭日とされている。中秋の日は、家族全員が集まり、月餅や果物を食べながら、月を観賞する風習がある。次は中秋節に関する“嫦娥が月にのぼる”というお話である。

 嫦娥は月の神で、夫の後羿は勇敢で戦に長けている戦いの神であり、狙ったものには必ず的中するほどの弓の腕をもつ。当時、人間世界には多くの猛禽や猛獣が現れ、人々に災いをもたらしていた。これを知った天帝は、これらの害を取り除くよう後羿に命じた。そこで後羿は、美しい妻の嫦娥を連れて人間世界に来た。後羿は剛胆であり強いことから、地上の多くの獣に簡単に打ち勝つことができた。こうして天帝から与えられた任務は完成しかと思われたとき、予想せぬ事態が発生した。つまり空に十個の太陽が同時に現れたのだ。実はこの十個の太陽はいずれも天帝の息子であり、これら息子は、いたずらするため同時に空に現れたので、強い日差しを受けた大地の温度はあっという間に上昇し、森林や畑は燃え、川が枯れ、人々の焼け死んだあとの屍がいたるところに見られた。

By whenis , 16 8月, 2009

陶淵明は中国古代の著名な文学者であり、彼は、その詩文は非常に有名であるばかりか、権力や富を軽視し、権勢に決して迎合しないことでもよく知られている。

 陶淵明が生まれたのは西暦365年。彼は中国では最初といえる田園詩人である。彼の生きた時代は、政権が更迭し、社会は不安定で、人々は苦しい生活に苛まれていた。西暦405年、陶淵明は家族を養うため、家から程近い彭澤県で県令になった。ある冬、上司が一人の監視官が派遣してきたが、この監視官は下品な上傲慢で、彭澤県に来ると、すぐ自分に拝見するよう彼に命じた。

 これを知った陶淵明は、このような上官の名を盾に人間をひどく軽蔑したが、仕事の関係から仕方なくこの監視官に会う準備をした。そこで彼の秘書は「あの監視官は些細なことでも過酷な要求を出す人間ですぞ。あなたさまも、ちゃんとした服を着て、謙遜な態度で臨んでください。でないと、あの監視官は上司にあなたの悪口をいうかもしれませんよ!」と忠告した。人柄のまっすぐな陶淵明はこれを聞いて我慢しきれず、「わたしは死んでも、だた五斗の米の扶持のために、あんな人間には頭を下げたくない!」と言い、すぐに辞表を書き、八十日あまり前になったばかりの県令の職を去り、それからは一度も仕官をすることはなかった。

By whenis , 15 8月, 2009

 中国古代の戦国時代には、多くの諸侯国が並存していた。各国には有名な人物がいて、これら人物にまつわる物語もまた今でも広く伝わっている。

 秦の国の将軍である白起は、戦には非常に長けていた。彼が指揮を取った戦いは負けたことがないので、かれは人々に「常勝将軍」と呼ばれていた。ある年、秦の国王は白起に兵を率いさせ魏の国攻略に向かうよう命じた。しかし、もし魏の国が秦の国に落とされれば、他の多くの国まで連鎖反応が起こりかねないので、人々はこれに強い不安を覚えた。

 蘇厲という策士いて、魏の国を攻めないよう白起を説得するよう命じられた、そこで蘇厲は何とかして白起に会ってから、次のような故事を彼に聞かせたという。

By whenis , 14 8月, 2009

 紀元前9世紀から5世紀にかけては、中国の戦国時代である。この時期の諸侯国は数十にものぼり、生き残るために、正しく効果的な内外政策を実施することが各国では重要となってくる。そこで国王に策を献ずることを専門にした策士という階級が生まれた。これら策士たちは、それぞれ哲学的思想や国を治める道理を持ち、意味の深い活き活きとした例を用いて摂政者を説得し、摂政者にその策を喜んで受け入れさせること得意としていた。

 この「一たび鳴かば人を驚かさん」という故事も、策士の淳于昆が国王に自分の策を受け入れさせた例である。

 斉の威王は即位して間もない国王であった。彼は太子のころから、賢く才能があり、文武両方の知識を懸命に勉強したほか、治国の政略をも研究し、自分の即位後に斉の国を強大にしようという志があった。しかし実際に即位してみると、国王の権威と国王になってからの楽しみは太子のときより遥かに大きいことが分かった。かれは毎日大臣たちにおだてられ、後宮に帰れば最高級の酒食をむさぼり美女に囲まれたので、彼の太子時代からの雄大なる志は徐々に消えていた。

By whenis , 12 8月, 2009

紀元前6世紀に生きた孔子は、中国史上で有名な思想家と教育家であり、彼の創立した儒家の学術は、のちの中国文化での重要な部分となった。長い封建時代に、支配者たちはいずれも儒家の思想を正統なる思想とみなしていたので、孔子一族は名望のある家系とされた。孔子の直系の子孫の中には有名な人物が多く、彼の12代目の子孫である孔融もその一人である。次の「子時了了、大未必佳」(小さい頃頭がよいものが大人になっても頭がよいとは限らない)の故事は孔融に関するものだ。

 これは中国古代の著名な逸話集《世説新語》に載っている。

 孔融は西暦2世紀の漢代の優れた博学者である。かれは家庭の影響で、幼いときから賢く、言葉づかいが巧みで、年少であるにもかかわらずその名を知られていた。

 孔融が10歳のとき、父親が洛陽の行政長官である李元礼を訪ねるというので、彼は父についてきた。李元礼は有名な学者であるが、その傲慢さも知られ、普段訪問客は多いがが、それが無名の者であれば、屋敷の門番たちはこの訪問客を容易に通さない。

By whenis , 11 8月, 2009

 紀元前五世紀から三世紀にかけては、中国では戦国時代である。当時の中国には多くの諸侯国があり、戦争が続いているので、各国には国王に知恵を出す大勢の策士がいた。その策士たちは国王に策を献じるときは、実例を挙げた意味深い喩えを用いて、己の主張を聞き入れさせることが多い。「轅は南で轍は北」の成語も、魏の大臣である季梁が魏王に策を献じたときのことを描いている。

 戦国時代では、実力のある諸侯国たちはそれぞれ天下統一を目指す。その中で魏の国王も天下をとるべく、先に趙の首都である邯鄲を攻め落とし、趙を従属下に置こうと考えた。ちょうどこのとき魏の大臣である季梁は国外にいたが、これを知ると、いても立ってもいられなくなり急いで帰国し、着替える閑もなく、魏の王に会いに行った。

By whenis , 9 8月, 2009

 アラビアンナイトの《千一夜》と《漁師と悪魔》の物語は広く世界に伝わっているが、実は中国にも内容の似たような物語があった。このほぼ誰もが知っている物語とは、東郭先生とオオカミである。

By whenis , 8 8月, 2009

「愚公、山を移す」は実話ではないが、中国では誰もが知っている説話だ。これは《列子》に記載されている。《列子》は紀元前四・五世紀に列御寇という哲学者が書いた本である。

この説話はつぎのようなもの。

 むかし、愚公という老人がいて、歳は九十近くになる。彼の家の前には二つの、太行山と王屋山という二つの山がはだかっていたので、人々は、山の向うへ行くのに大きな不便を感じていた。

 ある日、愚公は家族全員を集め、「あの二つの山はわが家の門をふさいでおるので、出かけるときはいつも遠回りをしなければならない。ならばみんなで力を合わせ、あの二つの山を他に移そうと思うのだが、みんなはどう思う?」と言い出した。

 それを聞いた愚公の息子と孫たちは「その通りです。明日からやりましょう!」と同意してくれた。ところが、愚公の妻はこの二つの大きな山を移すのは無理だと思い、「もう私たちは長年このように暮らしてきたというのに、このままで生きていってもいいじゃないのかい?それに、あんな大きな二つの山少しづつ移せるとしても、その土や石をどこへと運べばいいのかい?」と反対した。この愚公の妻の言葉はみんなの議論を招き、確かにそれが問題だった。そこでみんなの意見がまとまり、山の土と石を海へ運ぶということになった。

By whenis , 7 8月, 2009

 ある日、虎は腹を空かせ、獲物を探し回った。運よく、かれは一匹の狐を捕えたので食べようとした。だが狐は「お前には私は食べられないさ。私は神に派遣されてきたんだ。神は私を百獣の王に封じたのだぞ。もしお前が私を食べれば、神の意思を逆らうことになるのだぞ。」という。

 狐の言葉を聞いた虎は半信半疑、空腹を我慢しながらも、どうすればいいのか分からずにいた。この戸惑っている虎を見た狐は「ウソだと思うのか?ならば私が前を行き、お前は後からついて来るがいい。動物たちが私を見れば、きっと逃げていくだろう!」と言い放った。

 では、やって見ようと思った虎は狐に言われたとおり、その後について行ったところ、果たして、動物たちは自分たちをみて恐れをなし、四方に逃げていったのである。しかし、虎は動物たちが怖がったのは、狐ではなく、自分だったということには気づかなかったのだ。

 この成語は、真と偽は表から裏へと、一歩一歩と深く追求して区別するべきである。でないと、「虎の威を借りる狐」のようにの人に欺かれてしまうと人々に忠告している。

By whenis , 6 8月, 2009

 ある浅い井戸に一匹の蛙が住み着き、楽しい日々を送っていた。ある日、蛙は東海からやってきた一匹の海がめに「ここは毎日楽しいぞ!遊ぶときは柵の上を飛びまわり、休みたいのなら井戸の壁の欠けた瓦で休み、泥を踏んでも、足をとられるまで沈まないぞ。それに比べ、あの小さな虫けら、蟹とオタマジャクシなどは、まったく私には及ばないよ!それに、私はこの溝の水を独り占めにしており、飛びたいときは飛び、休みたいときは休むんだ。本当に素晴らしい!お前さんも井戸に降りてきて見物して行かないか?」と自慢した。

  そこで海がめは右足を井戸に踏み入れてようとしたが、まだ左足を入れていないというのにもう右足が挟まれてしまった。そこで海がめは井戸に降りるのはやめて、蛙に、「遥か千里といえば遠いと思うだろう?だが、それは海の広さを表せない。千仞といえば高いが、海の深さはそれでは表せない。夏の禹時代にすごい洪水で氾濫したが、海の水は少しも増えなかった。商湯時代に八年中七年は日照りに襲われたが、海の水は少しも減らなかった。永久なる海は、どんなに月日が流れても変わらず、どんなに雨が多くとも海面は高くならないんだぞ。これこそが東海に住む私の一番の楽しささ!」と海亀は言ったという。。