中日成語・ことわざ

中日成語・ことわざ

By whenis , 19 11月, 2009

“师傅领进门,修行靠个人。”:shīfu lǐng jìn mén, xiūxíng kào gèrén.

“师傅” は昔技術や芸を伝授する師匠、先生、親方の意味です、今も技芸をもつ人に対して広く用いる尊称です。 “修行”はもともとは佛教、道教で修行することを指しますが、ここでは知識の積み重ねること、身に付けることを指します。

この諺の意味は:入門知識と正しい勉強方法を先生に教わっているが、これからは自分の努力でやります。

この諺の前半は入門の時、先生の重要性を強調しますが、後半は生徒自分の努力と個人差を強調します。普段使う時、みんな後半の意味が重視されます。どんなに有名な先生でも、生徒さんはすべて成功になるわけではないということです。成功できるかどうかこの生徒の今後の努力と能力によって違います。

例句:俗话说,“师傅领进门,修行靠个人。”,课堂上教给学生的是基础知识,要取得优秀的成绩,就要看学生个人的努力了。

(よく言われるように、「入門知識と正しい勉強方法を先生に教わっているが、これからは自分の努力でやります。」、授業中、先生は生徒さん達に基礎知識だけ教えましたが、優秀な成績を取れるなら、生徒さん個人の努力次第ですね。)
 

By whenis , 19 11月, 2009

 “说曹操,曹操就到。”:shuō Cáo Cāo, Cáo Cāo jiù dào

意味:曹操のことを話すと、曹操がやってくる。日本の諺「噂をすれば影がさす。」にあたります。

語源:曹操は、後漢の武将・政治家で三国時代魏の事実上の建国者。「三国志演義」に代表される三国志伝承において、冷酷な悪役として認識される。情報収集力に優れていたため悪口など言えば、すぐに曹操が現れて殺されると恐れたことから。

今はその人のことを話している時、或は思っている時、その人は急に目の前に現れた時、よく使われます。

例句:我们正说你呢,你就来了,真是“说曹操,曹操就到”呀!

(私たちは今あなたの事を話しているところに、あなたが着ました、本当に「噂をすれば影がさす。」ですね!)
 

By whenis , 15 11月, 2009

中国語の四字成語:

“熟能生巧”(shú néng shēng qiǎo):慣れればうまくなるものだ。

“熟”は”熟练”:熟練している、上手であるの意味。

“巧”:(手や口が)器用である、上手である。

例:我的汉语听力怎么总是不好呢? (どうして私の中国語のヒヤリングはいつも悪いんだろう?)

别着急,熟能生巧,多听多练习,慢慢就进步了。(焦らないで、慣れればうまくなるものだから、よく聞いて、よく練習して、だんだん進歩できるだろう。)
 

By whenis , 1 9月, 2009

   大きな困難にぶつかり、周りの不利な状況のすべてはその者の失敗を予言しているかのようなときのことを、中国語では“四面楚歌”という成語で比喩している。

   紀元前202年、中国最初の封建王朝である秦王朝が誕生した。現在の世界文化遺産である中国陜西省の始皇帝の兵馬俑はこの王朝が残した遺跡である。そしてもう一ヶ所の世界文化遺産――万里の長城も、秦王朝に始めて建設されたもだ。

   秦王朝の支配者はひたすら大きな仕事を好み、特に始皇帝は自分のために豪華な王宮や陵墓を造り、膨大な資金を費やしたので、民百姓たちは酷い搾取を受け、民間では蜂起は相次いで起こっていた。その結果、15年後に、秦王朝は滅ぼされ、そのときには項羽と劉邦がそれぞれ率いる二つの勢力が残っていた。

   もとは楚の地出身であり将軍の項羽は、気丈で傲慢な性格の持ち主であり、また戦いに長けていた。一方、劉邦は秦王朝が滅ぶ前には階級の低い官吏であり、狡猾な性格だったが、人使いはうまかった。秦王朝と戦いで、この二人は義兄弟となり、互い助け合っていたが、秦王朝が滅ぶと、二人は反目してしまった。

By whenis , 24 8月, 2009

  鏡は中国の伝統的文学では満月を意味し、鏡を持ってその人物の何一つ欠点のない品性を形容し、時には人の心は鏡のようにきれいだとか、鏡のようにはっきりしているという。成語の「破鏡重円」は分かれた夫婦がまたもいっしょになることを云う。

 時は西暦9世紀。当時、中国の北方には強大な隋の国があり、南方にはいくつかの小さな国があって、国都が建康(今の南京)にある陳の国はそのうちの一つ。隋はこれら南方の国に対し虎視眈々とし、中国を統一しようを狙っていた。

By whenis , 23 8月, 2009

   中国では、諸葛孔明の名は誰もが知っている。もし誰かを公明に喩えたとすれば、その人の知恵を讃えているのだ。次は諸葛孔明に関する故事である。

By whenis , 22 8月, 2009

  紀元前三世紀の頃は、中国では魏、蜀、呉の三国時代であり、魏は北方を占め、蜀は西南方を占め、南方は呉に占められていた。あるとき、長江の南にある呉を攻めるため、魏は大軍を繰り出し水路からせめて来た。やがて、魏の軍隊は呉に近い地点まで突き進み、河辺で陣営を置き、その後進軍する機会をうかがい始めた。

中国語成語・中国物語

 呉の元帥である周瑜は、魏の軍隊を探察させた後、弓で敵を防ごうと考えた。しかしそれにはどうしても十万本もの矢を短期間内に作り出さなければならない。どうするか?当時呉の能力からみて、それには少なくとも十日はかかるのだか、守備側の呉にとっては、十日は長すぎるのだ。

By whenis , 21 8月, 2009

   紀元前四世紀の中国は、諸侯たちが割拠する「戦国時代」と呼ばれている。この時代に魏の国で仕官している孫臏は、同僚である厖涓に迫害されたあと、斉の使臣に助けられ、斉の国都へとやってきた。

 そして斉の使臣が彼を斉の大将軍である田忌に紹介したので、田忌が孫臏に兵法をたずねると、孫臏は三日三晩続けて兵法を説いたので、田忌は心から感服し、孫臏を貴賓としてもてなし、また孫臏も田忌に感激して知恵や計策を献じていた。

 競馬は当時の斉の貴族の間で最も人気のある娯楽である。国王から大臣までがよく競馬を楽しみ、大金をはたいて賭け事をする。田忌もよく国王や他の大臣とこれに加わったが、これまで負けてばかりいた。この日も彼は負けたので家に帰ってからも不機嫌な顔をしていた。これを見た孫臏は「次回は私もお供しましょう、もしかしたら何かお役にたてるかもしれませんぞ」と田忌を慰めた。

 そして次に競馬が行われたとき、孫臏は田忌について馬場に向かい、文武諸官たちと多くの庶民も見物にきていた。競馬のルールとは馬の速さに基づき、上、中、下の三つの等級分け、ことなる等級の馬はそれぞれ異なった飾りをつけ、また賭けに参加した者の馬は、自分の考に基づき、それぞれ競走に出る馬の順を決め、三試合のうち二勝すれば勝ちとなるというものだった。

By whenis , 20 8月, 2009

  中国の後漢時代、都の洛陽付近の地区ではよく地震が起こった。史書によれば、西暦89年から140年までの五十数年間に、この一帯で起きた地震は三十三回にも上り、中でも119年に起きた二回の大地震の被害範囲は十数の県にも及び、多くの建物は倒壊し、人と家畜が死傷したことから、人々は地震を大きく恐れるようになった。当時の皇帝は、地震が起こるのは、神を怒らせてしまったせいだと思い、より多くの税金を庶民に課して、それを天を拝む行事に注ぎ込んでいた。当時、張衡という科学者がいて、天文、暦法、そして数学にも長けていた。彼は地震に関する迷信を信じず、地震は自然現象であり、人間にはそれに関する知識があまりにもなさ過ぎるとこから、彼は地震の研究に力を入れた。

 張衡は地震が起きる度にそれを細かく観察し記録し、科学的方法で地震発生の原因を突き止め、長年にわたって実験を繰り返した末、西暦132年に、つい恐らく中国だけでなく世界でも最初の地震を予報する機械を作り出し、これを「地動儀」と名付けた。

By whenis , 19 8月, 2009

 金はいつも光り輝くもので、中国の「毛遂の自薦」という成語は、次の故事のことをいう。

 古代の戦国時代、趙の国の都邯鄲は強大な秦の軍隊に包囲され、危険にさらされていた。そこで

 邯鄲を救うため、趙の王は楚の国と連合して秦に立ち向かう策を立て、楚を説得するため、親王である平原君を遣ることにした。

 こちら平原君は早速自分の食客の中から知勇兼備の士20人を選び、同行させようとしたが、19人は選べたものの、あと一人足りない。と、このとき、食客の一人毛遂が、同行を申し出た。

 「私に何の用事だ?」

 「私は毛遂というもの。ご主人が邯鄲を救うため楚に遊説に行かれると聞きましたので、ご同行しようと思いました」

 「その方はここに来てどのくらいになる?」

 「三年ですな」

 「三年といえば短くはない。いいかね、優れた人材というものは錐みたいなもので、袋の中に入れておいても、それを突き破って先が勝手に飛び出してくるのだ。しかし、その方はここの三年もいるのに、優れた才能があるとは聞いておらん。私が楚に行くのは国を救う重荷を背負っているのじゃ。才能なきものが行っても始まらん。ここに残っておれ」

平原君は正直に言い聞かせたつもりだが、当の毛遂は自信ありげに答えた。