中国茶の歴史

中国茶の歴史

By whenis , 18 12月, 2016

1920年、安直(直皖)戦争に敗れて失脚。その後、1924年には第二次直奉戦争によって、張作霖らの支持で臨時政府執政となるものの、1926年、馮玉祥に追われて下野しました。のちには国民党政府委員を務めるなどしましたが、1936年に病死。72歳でした。

その後は、安徽軍閥の首領として、直隷派・奉天派と争いました。そして外国の支持を得るため親日的な政策をとり、寺内正毅内閣から"西原借款"を受けました。この"西原借款"とは、寺内正毅内閣が当時の中国政府(実際には段祺瑞が指導する北洋軍閥)に与えた貸し出しのことです。借款の内容は現金供与1億4500万円、武器供与3000万円、合計1億7500万円。そして第一次大戦の際は、連合国側に参戦しました。翌年、政治権力争いにより大総統・黎元洪に総理の地位を追われますが、その後、また国務総理に返り咲き。暫定憲法の制定と国会の復活を拒否し、民主派を弾圧しました。   

By whenis , 17 12月, 2016

1916年の袁世凱の死後、勢力は段祺瑞と馮国璋に二分され、段祺瑞と対立する一方の雄、馮国璋が初めて表舞台に立ちました。これ以降、馮国璋が率いる軍隊は直隷派と呼ばれるようになります。1916年10月馮国璋は副総統に選ばれ、1919年、故郷の河北省で60歳で亡くなりました。

1911年10月、辛亥革命が勃発し、華中・華南では革命派優位で情勢が推移しました。清政府は袁世凱を第2代内閣総理大臣、湖広総督に任命するとともに、反乱軍の鎮圧を命じました。しかし、清朝不利を確信していた袁世凱は部下の段祺瑞・馮国璋らを鎮圧に向かわせたものの、自らは動かず、一方では革命派と極秘に連絡を交わしました。こうして1912年3月、最後の皇帝宣統帝が退位して清王朝が滅亡、袁世凱は新生中華民国の臨時大総統に就任しました。   

1899年袁世凱と共に、「義和団運動」を鎮圧しました。1906年、馮国璋はまた一ついい機会に恵まれ、清政府から署正黄旗蒙古副都統兼陸軍貴族学堂の最高責任者に任命されました。  

By whenis , 16 12月, 2016

1924年から、寥仲ガイは「黄浦軍校」の設立に奔走しました。「黄浦軍校」は中国近代史上初めてとなる、革命のための軍事人材を養成する学校です。1925年5月5日、孫文を総理、蒋介石を校長、そして寥仲ガイが軍事代表を務める「黄浦軍校」が正式に開校し、この三人が学校の最高指導者となりました。その後、寥仲ガイは、この学校の発展に大きく寄与するのです。

 1925年8月、寥仲ガイは国民党の右翼勢力に暗殺されました。48歳でした。

第二次革命後、孫文を含む多くの革命家が再び日本に亡命しました。1914年、孫文は東京で「中華革命党」を結成し、寥仲ガイはこの党の組織を固めるため、全力を挙げ、同時にこの党の財政を担当する副部長となりました。1919年、孫文は「中華革命党」を「国民党」に改称し、『三民主義』を党是と定めました。1923年、孫文がソ連共産党と連携する方針を決め、寥仲ガイは積極的にこうした活動に参与しました。   

その後、親族の助けにより香港の「皇仁書院」で系統的な西洋学の教育を受けました。1897年、香港出身の女性・何香凝と結婚し、「皇仁書院」卒業後、1903年に日本の早稲田大学経済学部に留学。ここで革命思想の影響を受けて、中国留学生によるロシア反対運動に参加しました。

By whenis , 15 12月, 2016

1902年社会学の先駆者である章太炎は日本の社会学学者・本能武太の著作「社会学」を中国語に翻訳し、これは中国で翻訳出版した最初の社会学著作です。この訳本と彼の考え方は社会学が中国での広がりに対して大きな役割を果たしました。1935年章太炎は蘇州で「章氏国学講習会」を開き、古代文学の研究に没頭でした。彼は特に「春秋」という経学に興味を示し、10年かけてそれを研究し続けていたということです。彼の一生には「古文尚書拾遺」、「春秋左伝読叙録」、「春秋左氏義問題」、「劉子政左氏説」、「太炎文録」など多くの著作を書き、後世に編纂したのは『章氏叢書』などがあります。1936年蘇州で亡くなり、67歳でした。

 今、浙江省の杭州では彼を記念する「章太炎博物館」があり、彼の原稿や写真などが展示され、資料が一番そろっているところです。

By whenis , 13 12月, 2016

「彼は正確かつ素朴、総合的に中国の伝統的な哲学思想を解明した中国哲学史上,大きな功績を残した"集大成者"である。西洋の現代ロジックと理性主義で中国の伝統的哲学を改造し、中国哲学史という領域を創設し、「新理学」という新しい体系を確立した。彼は中国哲学とは何たるかを人々に知ってもらうと共に、中国の伝統哲学を現代的に発展させる方向性と方法論を示した。彼の研究成果は後世の学者が中国の伝統的な哲学を理解する上での基礎を築き、また、外国の人々に中国の哲学や文化を理解してもらうことに、大きく寄与した」

去年、北京大学、中国社会科学院、清華大学などの共催で「馮友蘭生誕110周年記念及び馮友蘭国際学術シンポジウム」が北京で開かれました。出席者は彼の近現代学術史上における地位について、次のように評価しています。  

By whenis , 10 12月, 2016

1936年、国際ペンクラブの総会がイギリスのロンドンで開かれ、中国代表も招請を受けました。中国政府は新文学の代表・胡適と旧文学の代表・陳三立の2人を派遣しましたが、陳三立はその年、既に84歳。健康上の理由で、結局、出席することが出来なくなりました。

 1937年、「芦溝橋事変」が勃発。抗日戦争が全面的に始まりました。陳三立は日本侵略軍に妥協しない姿勢を見せ、絶食を実行。その5日後、亡くなりました。

「戊戍政変」失敗の後、陳三立とその父、陳宝箴が維新派として辞任させられました。その後、陳宝箴は西太后から自害を命ぜられました。父親の死は陳三立にとって大きな打撃となりました。そして彼はそれ以降、政治に対して大きく失望し、仏教や詩の世界に傾倒するようになりました。1924年、インドの詩人・「タゴール」が上海を訪問した時、わざわざ陳三立を訪ねました。アジアにある二つの古い文明国の詩人が杭州で会い、互いに詩集を贈り合い、ともに記念写真を取りました。

By whenis , 9 12月, 2016

29歳の時、彼は芸術の探求のため、故郷を離れ、杭州や蘇州、上海などを回りました。最初の2年は詩人・兪曲園について文字学や修辞学を学びました。その後、蘇州で著名な書道家・楊藐翁について、書道の研究に励みました。同時に、彼は任伯年、張子祥ら芸術界の名高い人たちや収蔵家の呉平斎、?盦らと交流を重ねることで、視野が広がり、学術教養も大いに高まり、芸術的な表現力も進歩していきました。

 呉昌碩は詩や書道、絵画、篆刻いずれにも精通する芸術家です。そのうち、絵画が最も有名で、また書道に最も造詣が深かったといわれています。また、詩は書道と絵画の上達を促し、篆刻は書道と絵画の延長線上にありました。この四者はそれぞれ独立して存在するのではなく、互いに補完しあい、密接な関係を持ちながら、芸術家・呉昌碩が完成されていくのです。

By whenis , 8 12月, 2016

劉大白は青年時代、積極的に清王朝や袁世凱に反対する革命活動に参加した同盟会のメンバーでもあります。1910年前後、紹興で同盟会会員である王世裕とともに「紹興公報」を編集。また辛亥革命後に「禹城新聞」を編集しました。袁世凱に反対する「第二次革命」活動に参加したことで、指名手配され、日本に亡命しました。東京滞在中も同盟会に加入しました。

 袁世凱が亡くなった後、南洋から帰国し、1924年柳亜子氏をはじめとする「新南社」に参加。同年、「文学研究会」上海支部に加入しました。そして1924年2月末、邵力子の推薦で上海復旦大学の教授となりました。その後、上海大学の招きで、中国文学の教授を兼任しました。1928年1月、復旦大学をやめ、国立浙江大学の事務長に就任。さらに1929年8月15日、蒋夢麟教育相の要請により、教育省の事務次官となりました。1929年12月15日に教育省事務次官の仕事をやめた劉大白は、1931年から家に閉じこもり、創作に専念。1932年2月、杭州で亡くなりました。53歳でした。

By whenis , 6 12月, 2016

1927年上海光華大学、大夏大学及び南京中央大学で教鞭を執り、同年、胡適、梁実秋らと新月書店を創設、月刊『新月』の編集長となりました。(これが「新月派」という名称の由来)主なメンバーは胡適、徐志摩、梁実秋、陳源であり、その多くは『現代評論』派のメンバーでもありました。政治的には公然と共産党に反対し、革命に反対したとされています。文学的には、ブルジョア的人間性論をたたえ、プロレタリア革命文学を批判しました。

 1931年、南京から北平(今の北京)へ向う途中、飛行機事故で亡くなりました。36歳でした。

1918年渡米、クラーク大学で歴史学と銀行学を、そしてコロンビア大学で政治学を学びました。1920年9月に、コロンビア大学修士号を取得した後、イギリスに行き、ロンドン大学で政治経済を学び、そこで一人の若い女性、林徽音に出会いました。この17歳の少女は元北洋政府の司法総長・林長民の娘で 、その清楚な美しさと感受性豊かな心に、徐志摩はたちまち夢中になってしまいました。

By whenis , 4 12月, 2016

文学革命の指導者として活躍するかたわら、学者としても信奉するプラグマティズムの方法を学問の各分野に応用し、史学・哲学・文学・民俗学などで先駆者的な役割を果たしました。1918年には「建設的文学革命論」を書いて「国語の文学・文学の国語」を主張し、言語・文字・文体改革の理論を展開しました。このような思考方法は1954年以降の胡適思想批判運動のなかで、「内容が形式を決定する」のを本末転倒して、「形式が内容を決定する」ものとして非難されました。「五四運動」以降は李大釗らの左派と対立し、「国故整理運動」に精力を傾けました。

 その後、彼は文学運動から身を引いて、1920年『水滸伝考証』を、1921年『紅楼夢考証』を、1928年『白話文学史』等の実証的な研究を世に問いました。

 しかし、1930年代以降は儒教批判の批判精神も薄れ、次第に国民党の文化政策の代弁者としての色彩が濃厚になり、1938年には駐米大使、1942年には行政院最高政治顧問、1946年には北京大学学長となりました。最後に、台湾中央研究院院長・国民政府総統府資政の職をつとめた後、この世を去りました。72歳でした。

胡適(1891ー1962)中国現代の文学史家・思想家。安徽省績渓県生まれ。