中国茶の歴史

中国茶の歴史

By whenis , 25 6月, 2017

二十四史は、清の乾隆帝によって定められた中国の王朝の正史24書のことである。伝説上の帝王「黄帝」から明滅亡の1644年までの歴史を含む。
史記 - 司馬遷(前漢)
漢書 - 班固(後漢)
後漢書 - 范曄(宋)
三国志 - 陳寿(西晋)
晋書 - 房玄齢他(唐)
宋書 - 沈約 (南斉)
南斉書 - 蕭子顕 (梁)
梁書 - 姚思廉 (唐)
陳書 - 姚思廉 (唐)
魏書 - 魏収(北斉)
北斉書 - 李百薬(唐)
周書 - 令狐徳棻(唐)
隋書 - 魏徴、長孫無忌(唐)
南史 - 李延寿(唐)
北史 - 李延寿(唐)
旧唐書 - 劉昫他(後晋)
新唐書 - 欧陽修、宋祁(北宋)
旧五代史 - 薛居正他(北宋)
新五代史 - 欧陽修(北宋)
宋史 - トクト(脱脱)他(元)
遼史 - トクト他(元)
金史 - トクト他(元)
元史 - 宋濂他(明)
明史 - 張廷玉他(清)

By whenis , 26 5月, 2017

「中欧班列」は中国と欧州(ヨーロッパ)を結ぶ定期貨物列車のことです。

 2011年、「中欧班列」の第1便が重慶を出発し、新疆ウイグル自治区のアラ峠を通過し国境を越えました。これは海運、空運に次いで鉄道がユーラシア大陸をつなぐ第3の輸送通路になったことを表しています。その後、「一帯一路」構想を推進する中で、「中欧班列」は速いスピードで発展してきました。2015年3月に中国が公表した「シルクロード経済帯と21世紀海上シルクロードの共同構築を推進するビジョンとアクション」で、「中欧班列」の建設を国家発展の重点にすることが明記されました。2016年6月8日から、中国の鉄道は正式に「中欧班列」の統一ブランドを使うようになりました。現在、40本の「中欧班列」が新疆、内蒙古、東北から国境を越え、中央アジア、ロシア、中・東ヨーロッパ、西ヨーロッパなどに向けて運行しています。浙江省の義烏からロンドンまでの路線が2017年1月に開通し、「中欧班列」はヨーロッパ10ヵ国の15都市で運行されるようになったのです。「レール上の『一帯一路』」とされる「中欧班列」は中国と関係諸国との連結を推し進めています。

By whenis , 16 5月, 2017

これは今、放送中のテレビドラマのタイトルです。腐敗取締をテーマにしたもので、ドラマには外国籍の愛人、SWAT(特殊部隊)の出動、うずたかく積まれた大量の札束といったシーンが登場して、視聴者や世間に注目されています。

 専門家は、「この作品は国策を反映したドラマで、中国共産党第19回全国代表大会開催前の時期を選んで放送を開始している。これには、それなりの意味がある」としています。

 作品を手がけた李路監督は「この作品を通して、多くの人に、人としての温かみと正義の力を感じ、腐敗防止のための手本としてほしい」と語っています。

 ドラマの原作は「中国の政治小説第一人者」とされる周梅森の小説。作家本人が脚本を手がけ、最高人民検察院の映像センター、中国共産党江蘇省委員会宣伝部、中央軍事委員会後方支援部映像センター、湖南テレビなどの共同制作です。

By whenis , 25 4月, 2017

中国西北地区の古い芸能「皮影(影絵)」を上演する時、その物語の内容を「活動弁士」のように台詞や解説を歌うことから、この地区では影絵劇のことを「老腔戏」と呼ぶ。この「老腔」は中国第1陣の国家レベル無形文化遺産として登録されている。

 今年の「高考(gāo kǎo)」、北京の大学入試試験の作文のテーマは2つあり、1つは「老腔」で、もう1つは「しおり」。これについて、一部保護者は「老腔」は難しすぎると主張するが、しおりのほうが作文を展開するにはもっと難しいような気がする。

By whenis , 27 12月, 2016

陳独秀(1879ー1942)は安徽省懐寧県の出身で、思想家、中国共産党の創設者です。23歳の時、反清朝宣伝を行ったことで日本に亡命しました。東京高等師範学校、早稲田大学などで学んだことがあります。1906年、同盟会会員となり、帰国後、上海や安慶(現在の安徽省にある)などで口語の新聞を発行し、辛亥革命にも参加しましたが、反袁世凱闘争の最中、再度日本へ亡命しました。

国に戻った後、1915年上海で「青年雑誌」(翌年「新青年」と改称)を創刊し、「新青年」の発刊のことば《敬告青年》の中で、「民主」と「科学」のスローガンを掲げ、これらを汽船の両輪に例えました。彼は儒教批判・文学革命を説き「新文化運動」の旗手となり,青年学生に大きな影響を与えました。1917年初め、陳独秀は北京大学文科学長に就任し、編集部もこれに伴って北京に移り、さらに組織も改造、拡大されました。そのメンバーは、陳独秀、胡適、李大釗、魯迅、銭玄同、劉半農、周作人、沈尹黙、呉虞、高一涵、沈兼士らです。

By whenis , 26 12月, 2016

栄禄は1852年16歳の若さで官職につき、以後は内務府大臣、公部尚書、総理各国事務大臣などを経て、甲午戦争(日清戦争)中は歩軍統領となり軍務に参与しました。戊戌政変の開始直後に直隷総督兼北洋大臣として、北洋三軍を統率、袁世凱の密告を受けてクーデターを実行した。政変後は軍機大臣となり北洋海陸各軍を節制,また正規軍の整備統一と軍備充実をはかり、自ら軍を率いて南苑に赴任しました。光緒帝の廃立問題にも深く関与していました。義和団事件に際しては平和的解決をはかり、しばしば鎮圧を要請しました。8ヶ国連合軍の北京攻略後には、留京弁事大臣となり事後処理にあたり,のち西安に移ってからは政務大臣として新政に参与しました。1902年帰京後,太子大保・文華殿大学士を加えられましたが,翌年で病死し、67歳でした。

By whenis , 25 12月, 2016

1896年には「中俄密約」(露清密約)を結び,ロシア勢力の満州進出を許した。義和団事変(19世紀末,植民地化の危機に直面した中国の華北諸省でおこった反帝国主義的な大衆運動)では露清密約を結び,ロシア勢力の満州進出を許した。義和団事変では全権を委任され列強との交渉に当たり,辛丑(しんちゅう)条約を締結,まもなく病死し、78歳であった。

By whenis , 24 12月, 2016

1864年、新疆地区ではホイ族やウィグル族などの少数民族による蜂起が起きました。1875年左宗棠は新疆の軍務を担当する欽差大臣に任命されました。1877年にはヤクブベクを指導者とする回教徒の反乱の鎮圧に成功しました。とろろが、 新彊への進出を企図するロシアは、居留民保護を口実にイリ地方を占領し、反乱平定後もそのまま居座りました。 これに対し、左宗棠は武力解決を主張しましたが、いれられず、北京へ召還されました。 のちに清仏戦争が起こり、欽差大臣として福建へ派遣されました。だが、彼の創設した南洋海軍はフランス軍の攻撃にあい壊滅。1885年、敗戦の報を受けてまもなく、失意のうちに病没しました。

左宗棠はまた、洋務派官僚の一人として名が知られています。彼は福州の「福州船政局」(馬尾造船所)を創設し、軍備の近代化につとめていました。「福州船政局」は中国近代史で最大の造船企業として、長い期間全国工業科学技術の発展に大きな影響を及ぼしました。また、造船所は安い燃料を必要とするため、台湾の基隆炭鉱が開発され、これは中国が初めて機械を使って採掘した炭鉱となりました。また、台湾近代工業のはじまりだと見られています。

By whenis , 22 12月, 2016

1912年、革命側との交渉で、清朝が滅亡すると、孫文の跡を継いで中華民国の第2代臨時大総統に就きました。その地位を元に独裁権力を確立すると、宋教仁を暗殺し、さらに各地の反袁蜂起(第2次革命)を鎮圧して、正式な初代大総統に就きました。

 第1次世界大戦には中立を宣言しましたが、日本の対華21ヶ条要求を受諾。1916年元旦に自ら皇帝の地位に就き、年号を洪憲元年と改元、国号を中華帝国と改めました。

 しかし、雲南省をきっかけに各地で武装蜂起が起こり、列国も帝位を支持しなかったため、3ヶ月で帝位を取り消すに至ります。それからわずか3ヶ月後の6月6日孤立した中で急死、57歳でした。

1901年、直隷総督兼北洋大臣の地位に就き内政の改革に努めました。1908年に戊戌変法失敗の時の怨恨から一旦政界を追われますが、辛亥革命が勃発すると、復帰し革命勢力と交戦しました。

By whenis , 21 12月, 2016

同盟会の発足後、黄興は広州、雲南各地での蜂起を数回も指導しましたが、そのうち最大規模のものが「黄花崗蜂起」です。この蜂起では72人が死亡し、「黄花岡72烈士」と呼ばれ、今でも、その記念碑が広東省の中心地・広州にあります。1911年10月に武昌蜂起が勃発し、黄興は戦時総司令官に就任、1912年に南京臨時政府の成立とともに、陸軍総長となり、政府の北遷後は南京留守府の長官となります。第2次革命では江蘇討袁軍の総司令となりましたが失敗して、日本に逃れました。亡命後は孫文と意見が合わず,孫文の中華革命党に加入せず、新しい革命勢力の育成につとめ、資金の調達と宣伝活動のためアメリカに渡っていました。第三次革命では孫文に呼応し、袁世凱の死後は上海に戻りましたが、1906年10月、42歳で病死しました。

1905年、日本の友人宮崎寅蔵の紹介により東京で孫文と初対面。二人は統一した革命組織を創設すべきだという点で見解の一致を見たあと、1905年の8月東京で「中国同盟会」が発足させました。