1912年、革命側との交渉で、清朝が滅亡すると、孫文の跡を継いで中華民国の第2代臨時大総統に就きました。その地位を元に独裁権力を確立すると、宋教仁を暗殺し、さらに各地の反袁蜂起(第2次革命)を鎮圧して、正式な初代大総統に就きました。
第1次世界大戦には中立を宣言しましたが、日本の対華21ヶ条要求を受諾。1916年元旦に自ら皇帝の地位に就き、年号を洪憲元年と改元、国号を中華帝国と改めました。
しかし、雲南省をきっかけに各地で武装蜂起が起こり、列国も帝位を支持しなかったため、3ヶ月で帝位を取り消すに至ります。それからわずか3ヶ月後の6月6日孤立した中で急死、57歳でした。
1901年、直隷総督兼北洋大臣の地位に就き内政の改革に努めました。1908年に戊戌変法失敗の時の怨恨から一旦政界を追われますが、辛亥革命が勃発すると、復帰し革命勢力と交戦しました。