中国茶の歴史

中国茶の歴史

By whenis , 3 12月, 2016

翻訳論について、林語堂は「忠実・通順・美」(忠実・読みやすい・美しい)という見解を出しました。翻訳の三基準について彼は次のように語っています。

 「翻訳の基準にはおそらく三つの基準が含まれているだろう。ここではその優先順にそって検討していきたい。第一は忠実さの基準、第二は読みやすさの基準、第三は美しさの基準である。この翻訳におけるトリプルスタンダードは、厳復の『翻訳の三つの難しさ』とほぼ合致する。忠実さは『信』、読みやすさは『達』であるが、翻訳を詩歌や戯曲などの芸術作品との関係で考えると、もちろん『雅』だけで全てを代表することはできない。だが、かりに呉汝倫の言うように『簡潔さを損なっても、真実を曲げてはならない』原則を守るのであれば、きわめてエレガントに名付けられた『信達雅』の三基準に、上述の三つの側面が含まれると考えてもかまわない。しかし、『信達雅』の達成は、相当たやすいことではないことを、我々は銘記する必要がある」

By whenis , 2 12月, 2016

1928年からずっと中央研究院歴史言語研究所の所長を勤め、研究所の出版物「歴史言語研究所集刊」を創刊、その編集長を兼任しました。1929年の春、歴史言語研究所は南の広州から北京に移り、傅斯年はまた、北京大学の教授を兼任しました。1932年、胡適が社長であった独立評論社に参加し、「独立評論」で蒋介石政権を擁護し、共産党に反対する政治文章を発表しました。抗日戦争勃発後、国民参政会の参政員を担当すると共に、西南連合大学の教授を兼任しました。その時期、彼は抗日戦争を支持し、国民党官僚の腐敗を強く非難していました。抗日戦争勝利後の1948年、南京国民政府の立法委員に選ばれました。1949年1月、歴史言語研究所が台北に移ったのに伴い、傅斯年もそこへ移住、台湾大学の学長を兼任しました。

 傅斯年は政治面で蒋介石政権を擁護、中国共産党に反対し、また、学術面では、純客観的な科学研究を主張しています。

 1950年12月台北で、54歳で亡くなりました。

傅斯年(1896ー1950)は山東省聊城の生まれ。中国近代史上の歴史・言語学者及び考古学者です。

By whenis , 27 11月, 2016

1921年、郭沫若らと共に「創造社」を創設し、1922年、帰国後、「創造季刊」、「創造週報」「創造日」「創造月刊」の編集に携わりました。また、八高時代の自分をモデルに異国に学ぶ孤独な青年の性の悶えと弱小民族の悲哀を描いた『沈淪』を1922年に出版し、問題作となりました。その後、安徽公立法政専門学校、北京大学、武昌師範大学、広州中山大学にて教鞭を執りました。北京では冷遇されたものの、魯迅と出合って影響を受け、1927年、創造社を脱退。1928年、魯迅と共に月刊誌「奔流」を編集、外国文学の紹介に力を注ぎました。1930年、中国自由大同盟の発足、成立にかかわり、また、一時は中国左翼作家同盟に参加。1933年には、中国民権保障同盟に参加、上海分会執行委員をつとめました。1938年には、武漢へ赴き抗日救亡活動に参加、軍事委員会政治部第三庁設計委員をつとめました。同年末、香港、南洋群島一帯へ渡り、抗日愛国宣伝活動に従事。シンガポール陥落ののちスマトラ島へ亡命。日本語に精通しているため、日本憲兵の通訳を務めさせられました。しかし、この時期多くの華僑を助けたため、後に、これが原因となり、日本憲兵によって逮捕され、1945年殺害されました。享年49歳でした。代表作は「沈淪」、『春風沈酔の夜』、『范々夜』、『還魂記』など。  

By whenis , 20 11月, 2016

1923年、アメリカのハーバード大学に留学。1926年に帰国し、南京の東南大学で教鞭を執りました。そして翌年、上海で新聞「時事新報」文芸欄の編集に携わる傍ら、張禹九と共に雑誌「苦茶」を創刊しました。

 彼はロマンチシズムに憧れ、この面の詩作を数多く発表しました。ハーバード大学では新人文主義を提唱するバビッド教授の影響を強く受けました。代表的な論文は「現代中国文学のロマンチシズムの趨勢」です。この論文は1926年「晨報副鐫」で発表され、中国の新文学について「ロマンチシズムの混乱現象が起きており、理性に基づいて、また、普遍的な人間性から出発し、文学を作るべきだ」と主張しました。1930年、楊振声の招きに応じて、青島大学へ赴き、外国学部主任に就任。そして1934年、再び北京に戻り、北京大学の教授兼外語学部主任、1938年には国民参政会の参政員となりました。また重慶編訳館では翻訳委員会のほか、教科書編集委員会常務委員の仕事を担当するようになりました。1949年、台湾に移り、台湾師範大学英語学部の教授となりました。

 梁実秋は40歳を過ぎてから、主に翻訳や散文の創作に力を注ぎました。代表的な散文作品は「雅舎小品」です。また、1930年代から、シェイクスピア作品の翻訳を開始し、40年かけて、シェイクスピア全集の翻訳を完成させました。

By whenis , 19 11月, 2016

1925年、清華大学国語学部の教授となり、文学研究に携わる傍ら、散文の創作も本格的に始まりました。1928年、初めての散文集「背影」が出版されました。自らの目で見たことや心で感じたことが描かれ、その繊細さと素朴さで読者に多くの感動を与えました。特にその中の文章の一つ、「背影」は、家庭内に不幸な異変が起きたとき、その父親が駅のホームまで息子を見送る様子が見事に描かれており、散文の傑作として、数十年の間、国語の教科書に取り上げられてきました。

 1931年8月、イギリスに留学。言語学とイギリス文学を学びました。その後、欧州5ヶ国を訪問、1932年7月帰国して清華大学国語学部の学部長となりました。そして、1934年に、「欧遊雑記」、1943年に、「ロンドン雑記」を発表。いずれも印象的な手法で著したものでした。   

1948年8月病死。享年51歳でした。

 朱自清はその生涯で、二百万字あまり、30近くの作品を書き上げました。その大部分が開明書店出版の「朱自清文集」に収録されています。

抗日戦争勃発後、清華大学と共に南の長沙に移り、1938年3月、また昆明に移動、西南連合大学国語学部の部長を務めました。

By whenis , 18 11月, 2016

1924年「世界晩報」夕刊・「夜光」の編集長となり、以来、数多くの恋愛小説を発表しました。代表作は「春明外史」、「金粉世家」、「啼笑姻縁」などです。1924年から1939年までの5年間、彼は絶頂期を迎え、「鴛鴦蝴蝶派」の代表的作家の一人となりました。

 「鴛鴦蝴蝶派」とは中華民国初期から五四運動時期にかけて活躍した通俗文学のグループです。才子佳人の恋愛物語が多く、文豪・魯迅が「佳人が才子に恋をして、別れがたく、柳や花の下にいる一対の蝴蝶か鴛鴦のようだ」と評したことから「鴛鴦蝴蝶派」と称せられるようになりました。また小市民的趣味に迎合しているなどの評価もありました。1914年から1923年にかけて発行された週刊紙『土曜日』は影響力が大きく、それによって「土曜日派」とも呼ばれました。

 1935年、上海に移住し、「立報」の夕刊「花果山」の編集長となりました。抗日戦争勃発後、重慶に移り、その頃「新民報」に多くの文章を寄せるほか、多くの小説や散文を発表しました。1946年、新聞「新民報」北京支社の総経理兼夕刊・「北海」の編集長となりました。1948年「新民報」の仕事をやめ、新中国成立後は中国作家協会の理事となりました。

By whenis , 17 11月, 2016

30年代は詩歌の創作に従事し、新月派のメンバーの一人として活躍しました。彼女が作った詩「笑」、「深夜聞こえる音楽」、「ある夏の夜、山で」、「なくしてはならぬ」などは、緻密な描写、韻律の重視、音楽性に富んだ作風などが特徴です。短編小説「九十九度中」は、真夏の酷暑のなかで繰り広げられる北平(今の北京)での上流社会と下層の労働者の全く異なった生活を描きました。その対比が非常に鮮明で、かつ新しい手法が高い評価を受けました。

当時、北京東城総布胡同に住んでいた頃の彼女の家の応接間は"太太サロン"と呼ばれていました。当時の文壇の朱光潜、梁宗岱、金岳霖、沈従文、蕭乾などの有名人がここに集まり、お茶とお菓子などで、文学を談じ、芸術を論じ、古今東西の四方山話に花を咲かせていました。 そして"太太サロン"の主役はやはり林徽因でした。

新中国成立後、彼女は清華大学建築系の教授となりました。1949年以降、林徽因は中国国章のデザインや伝統的な七宝焼き模様の改革、それに、天安門広場にある人民英雄記念碑の設計にも参与しました。1955年病気で亡くなり、51歳でした。

By whenis , 16 11月, 2016

第一次国内戦争が失敗したあと、彼は徐々に消極的になり、部屋に閉じこもって本を読むことを提唱しました。30年代には、ユーモアに富んだ随筆的なものに興味を示し、40年代には、その風格はまた大きく変わり、渋くまた、退廃的なものとなりました。

抗日戦争勃発後、彼は日本軍政府政権下の南京国民政府委員や華北政務委員会常務委?兼教育総署督弁等の職を歴任。1945年には祖国を裏切る罪でつかまり、1949年に釈放され、北京に定住して、人民出版社で日本やギリシャなどの文学作品の翻訳や兄の魯迅の回想録の仕事に従事するようになりました。

「五・四運動」以降、周作人は週刊誌・「語?」の編集長として、風格異なる大量の散文を書きあげ、?平伯、廃名などの作家と共に、一つの流派となりました。 

By whenis , 15 11月, 2016

1949年以降、中国文物局局長、考古研究所所長、文学研究所所長、文化省次官、中国民間研究会副主席などを歴任。政治活動に携わった10年間、何度も代表団を率いて外国を訪問。1951年には、中国文化芸術代表団を率いてインドとミャンマーを訪問しました。そして1958年10月17日、アフガニスタンなどを訪問中、飛行機の墜落事故で亡くなりました。主な著作は短篇小説集「家庭の物語」、「桂公塘」、散文集「山中雑記」などです。

By whenis , 14 11月, 2016

1901年に、上海で蔡培元らと共に「外交報」を創刊し、1902年に、夏瑞芳の招請で「商務印書館」に務め、翻訳所所長、経理、監修、社長などを歴任。「商務印書館」に入った当初、「最新教科書」の編集を担当しました。その教科書には「教養、国語、算数」などでした。それ以降、海外の先進的な学術思想や文学を紹介する書籍をたくさん出版しました。また、張元済は目次学、校閲学に詳しく、「四部叢書」と「二十四史」など大型古代書籍を出版し、その学術価値は各方面から好評を博しました。張元済は「教育の発達」を商務印書館の経営方針としているので、数十年間、格調の低い出版物を一冊も出さなかったのです。また、彼が開設した商務翻訳所の資料室・「涵芬楼」は1926年に東方図書館として拡大され、また一般公開しました。そこに古代書籍、地方の正式な歴史書及び様々な図書が所蔵されており、豊富さから見れば、当時の私立図書館でトップとなっています。

新中国成立後、第一期全国政治協商会議の議員、第1期と第2期全国人民代表大会の代表、上海市文史研究館館長などを歴任。1959年8月病気で上海で亡くなり、享年93歳でした。

張元済(1867ー1959)は近代中国の出版家です。出身は浙江海塩で、1867年10月広東省広州に生まれました。