「詩聖」杜甫とその詩

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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中国の文学史上では李白と杜甫は、唐代の詩の最高レベルを代表する人物とされる。

杜甫は712年に生まれ、著名な詩人杜審言の孫である。杜甫は子供の頃から賢く、勉強に熱心であった。家庭の教育がよく、7歳から詩の書き方を覚え、大人になった杜甫は、書画や音楽、乗馬、剣道いずれもマスターした。青年時代の杜甫は、才気に富み、大きな志を持っていた。19歳から旅に出、ロマン溢れる暮らしを送った。ちょうど唐代が最も繁栄していたときで、杜甫は多くの名山や川を旅した。「会ず当に絶頂を凌ぎ、一覧して衆山を小とすべし」など世に長く詠われる詩を作り上げた。杜甫は多くの文人と同じように官職の道で出世しようとしていた。詩や散文を捧げて権力者におもねり、科挙の試験を受けたが、たびたび失敗に終わった。中年になった杜甫は唐の都長安で貧しい暮らしを送った。権力者の贅沢な暮らしと貧しい人々の惨めな暮らしぶりをこの眼で見た杜甫は「朱門酒肉臭し、路に凍死の骨あり」の句を綴った。官職での失意と暮らしの困窮に苦しめられた杜甫は、統治者の腐敗と民衆の苦難を次第に認識し、憂国の士となった。杜甫は43歳になる755年にようやく官職についた。しかし、一ヶ月を過ぎてまもなく唐に反対する戦乱が起こった。その後、戦乱は止まず、その間杜甫は各地を浮浪し、艱難辛苦を嘗め尽くした。現実に対して明晰な認識をもつ杜甫は有名な詩文「石壕吏」、「潼関吏」、「新安吏」、「新婚別」、「垂老別」、「無家別」を作り、民衆に対する同情と戦争に対する憤りを表した。

政治に対して徹底的に失望した杜甫は759年に官職を辞した。ちょうど長安が旱魃をこうむった時期にあり、貧しくて生活が維持できなかった杜甫は家族を連れて、西南部の成都に流れ着いた。友人の援助を得て4年間隠居生活を送ったこの間に書いた「茅屋為秋風所破歌」は家族の貧しい暮らしを描いたもので、自らの経験で天下の貧しい人々の気持ちを詠い、それは詩人の高尚な気持ちを体現しているものであった。

770年59歳の杜甫は放浪の途中で死去した。杜甫が書いた1400篇の詩は、唐代の戦乱を表すものが多く、唐代の最盛期から衰退期までの20年における社会の全貌を記している。杜甫の詩は形式に富み、多くの先人の長所を取り入れ、自らも革新をして、内容と形式の上で詩歌の分野を大きく開拓したもので、後代に広範な影響を及ぼしている。

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