中国茶の歴史

中国茶の歴史

By whenis , 26 5月, 2018

北京を訪れた人が必ず足を向ける繁華街、王府井。長安街から北京飯店を左に見て、北に向かうこの一帯はいつも大勢の人でにぎわっています。その近代的なショッピングモールがある東安市場の地下に、小さな博物館があるのをご存知でしょうか。王府井古人類文化遺跡博物館です。この取り合わせを不思議に思い、訪ねてみました。

 1996年の暮れも押しつまった12月28日のことです。前の年から始まった東安市場の整地作業の最中、石や骨で作ったナイフ状のものとか、動物の骨、火を使った跡など、かつて人間が生活していた痕跡がたくさん見つかったのです。

 北京郊外の周口店といえば、北京原人が発見されたところですが、はるか昔の人類の足跡が、北京の都心部に残っていることで大騒ぎになりました。

 工事を中断して、中国科学院古脊髄動物・古人類研究所や北京市文物研究所による発掘作業が8カ月にわたって行われました。その結果、地下11ー12メートルに2000平方メートルにわたって、人々が暮らしていたことが分かり、石器、動物の骨など2000点が収集されました。いまから24000年から25000年前、旧石器時代後期の遺跡と見られています。火を使った形跡もあり、当時の人が焼いたり、煮たりした食べ物を口にしていたことが伺えます。

By whenis , 25 5月, 2018

北京の伝統芸能に京劇があります。きらびやかな衣装、ドラも加わった音楽。言葉が分からなくても、十分に楽しむことができます。北京の劇場で観覧可能ですが、短い日程で北京ツアーにやってきた人は、切符の入手や問い合わせが面倒なため、尻込みする人も多いようです。

 そんな人にうってつけの場所、北京戯曲博物館を紹介します。京劇を毎日上演している常設劇場ともいえます。宣武門のあった南の地区、つまり宣南地区が庶民文化の発祥の地、と紹介したことがあります。京劇は清の時代に始まったもので、最盛期の北京には20を超える劇場があり、そのほとんどが宣南地区に集中していました。  

 その宣南には、全国各地から文化人や商人が集まってきました。そして、宿泊したり情報交換のための場所、日本流にいえば県人会の寮のような施設が次々と建てられました。

 そのひとつに湖広会館というのがありました。1807年に建てられたもので、湖北省と湖南省出身者が寄り添う場所になりました。新中国の成立後は一般の住宅や事務所として使われてきましたが、10年ほど前、改修を加え、北京戯曲博物館として衣替えしたのです。  

By whenis , 24 5月, 2018

中国はインドと並ぶ映画大国です。年間300本以上が製作され、外国での上映の機会も増えています。「紅いコーリャン(中国語名:紅高梁)」「初恋の来た道(我的父親母親)」「心の湯(洗澡)」「山の郵便配達(那山那人那狗)」といった作品は日本でも評判を呼びました。最近では高倉健さんが出演した中日の合作映画「単騎千里を走る」も作られました。   

 そんな映画の国にふさわしい博物館、中国電影博物館が2月10日に北京にオープンしました。ちなみに電影は中国で映画のこと。今回の「博物館めぐり」は映画の旅に出かけましょう。   

 博物館はアジア最大規模という触れ込みです。映画博物館が必要だと声をあげたのは、1958年、時の周恩来総理だったのです。しかし、具体化したのは改革開放政策が始まってからで、2002年に着工され、建物は3年がかりで完成し、一年の準備時間を経てオープンにこぎつけたわけです。   

 世界で初めて映画が上映されたのは1895年のフランスです。一方、中国で初の無声映画が作られたのは1905年ですから、この博物館は中国映画100年の歴史を反映しているともいえます。

By whenis , 13 5月, 2018

歴史の都、北京には博物館や記念館がいくつぐらいあるのでしょうか。インターネットで検索し、地図で捜してみました。その結果、170を超す施設が見つかりました。一時閉鎖中や改築中のところもあるようですから、実際はもっと多いかもしれません。多くの特色のあるなかで、今回紹介するのは、古建築をテーマにした博物館、北京古代建築博物館です。建築と名づけた博物館は全国でもここだけです。

 この博物館は北京の南、「先農壇」の中にあります。壇とは、古代に祭りや祈りごとなどの行事に使われた台のことです。「天壇公園」は有名ですが、ここは天を祭るところ。となれば、古代建築博物館は農業と関係ありそうです。

 1991年9月に一般公開が始まり、原始社会から明・清の時代に至るまでの建築の特色が分かるようになっています。中国は農業大国です。春先には豊作を祈り、秋には収穫に感謝する皇帝の儀式が、この先農壇で行われたのです。明の都は当初、南京にあり、同じような台は「山川壇」と呼ばれたものがありました。北京に都が移ってから、作られたのが先農壇。これに四合院式の建物が一体となっています。

 博物館はその建物を利用した形になっています。中心となる太歳殿に入ると、横長の大きな絵が目に入ります。清の雍正帝がたくさんの御つきを従えて、豊作を祈っている図です。

By whenis , 12 5月, 2018

元、明、清と三代にわたって北京の人たちに時を告げつづけた場所、それが鐘楼と鼓楼でした。鐘はゴーンという鐘、鼓はドン、ドン、ドンという太鼓です。今回の博物館めぐりは、この北京鐘鼓楼文物保管所、故宮の北、北海公園に近いところに建つ鐘鼓楼です。

 明の時代、1420年に建てられたといいますが、火災などもあり、今、お目にかかれるのは、1749年、清の時代に改築されたものです。

 鼓楼には一つの大太鼓と24の小太鼓がありました。昔、中国では、2時間をひとくくりにして「更」と呼びました。水時計が正確な「更」を告げると、これを聞いた太鼓の打ち手25人が、リーダーの指示のもとで太鼓をたたくのです。そして、鐘がつかれます。太鼓と鐘、合わせて108回、これら「更夫」と呼ばれる人たちで、市民に時間が伝えられたのです。複製品ですが、水時計も鼓楼には残っており、30分に1回で、太鼓の実演を見ることもできます。

 太鼓と鐘の音は、いまの前門あたりまで伝わったといいますから、まさに都のシンボルだったのでしょう。ところで「更夫」さんたち、うっかりして太鼓をたたくのを忘れたりしなかったのでしょうか。文物保管所の朱英麗さんに聞いてみたら、「記録にそんなことが残っていませんが、みんな大きな使命感を持っていたはずですよ」とのことでした。

By whenis , 11 5月, 2018

中国国家博物館は、天安門広場の東側に建つ威風堂々の博物館。中華民族の歴史が一目で分かります。大小合わせれば、中国には2300の博物館、記念館の「歴史の現場」がある、といわれますが、その頂点に立つのが、この国家博物館です。

 建物は、新中国成立10年後の1959年に建てられました。当初は、「中国歴史博物館」としてスタート、「中国革命博物館」も設けられました。二つが合併して、今の形になったのは、2003年2月末のことです。広さは6.5万平方メートル、08年の北京オリンピックまでには15万平方メートルになる予定です。

 収蔵品は30万点。このうち、陳列されている文物は1万点。ぶらぶら歩きしていたら、2ー3時間はかかるでしょう。今、常設展で人気があるのは、「蝋人形」で知る中国・世界のコーナーです。中国初の宇宙船「神船6号」の飛行士の笑顔に迎えられて展示室に入ると、孔子、孟子、毛沢東、トウ小平といった要人に出会うことができます。

 ニュートン、ピカソ、マリリン・モンローなど故人ばかりでなく、なんとビル・ゲイツもいます。みんな等身大、本当に生きているようです。それぞれの説明文を見ながら、歴史がしのべます。

By whenis , 10 5月, 2018

路東之さんは1962年、北京生まれの画家です。幅広い活動をしている芸術家といってもいいでしょう。学生時代には数多くの美術展に出品して入賞したほか、ルポルタージュも手がけ、中国作家協会のメンバーにもなっています。その路さんが、運営しているのが古陶文明博物館です。北京の古い町並みが残る宣武区右安門内西街にある小さな博物館です。

 ここに展示されているのは、新石器時代から秦、漢の時代にかけての泥細工、瓦(かわら)、陶器です。収蔵品は3000点。このうち、2000点ぐらいが並んでいるそうです。初期のかわらには鳥や動物の姿がかたどられていますが、やがて、太陽や宇宙を連想させる模様も登場します。こうした模様は権力者の象徴、つまり、権力者の家でなければ、かわらは使えなかった、ということでしょう。  

 陶器は、水や酒を入れる容器、食器など生活用品に使われました。その後は、門の扉の部分やお墓にも利用されるようになりました。展示されている一つ一つを見ながらホールを歩いていくと、はるか昔の庶民の生活ぶりがしのばれます。

 他の人が感じられないことをやっていくのが、芸術家の役割であり、仕事だと路東之さんは言います。そして、この博物館は、来年、開館10周年を迎えます。

By whenis , 8 5月, 2018

北京の中心部に入るには、いくつかの門をくぐらねばなりませんでした。東直門、西直門など多くの門は、いま、地下鉄2号線の駅名となって、その名残りを留めています。地下鉄2号線は、北京駅から時計回りで行けば、前門、復興門、雍和宮などを回って戻ってくる環状線です。乗り間違いの心配はないので、北京観光の折には、ぜひ試してみるといいでしょう。

 さて、その宣武門のあった南の地域は、宣南と呼ばれ、古くから文化人や学者、そして京劇の俳優が住み、また商業の中心としても栄えました。故宮の一帯が皇帝やお役人の世界だったとすれば、宣南は庶民文化が花開いたところでもあったのです。

 その歴史が一目で分かるところが、北京宣南文化博物館です。もともとは、長椿寺というお寺でした。

 お寺ができたのは1592年、明の時代です。時の皇帝は、長寿と健康を祈って、「長椿寺」という名前を贈ったそうです。そういえば、椿はなかなか枯れることがなく、いつまでも青々としていて、日本でも長生きのシンボルになっています。回族がたくさん住む牛街に通じる道は長椿街ですが、この名前もお寺から来ています。

By whenis , 6 5月, 2018

前回も少し触れましたけど、兵馬俑博物館の一号館、二号館と三号館は発掘された時間の前後によって名づけられたのです。その規模と役割はそれぞれ違います。規模といえば、一号坑の規模は一番大きく、二号坑は一号に次ぎ、三号は最も小さいです。兵馬俑は始皇帝の都を守備した警備軍を模して作られたもので、この三つの坑の役割分担ももちろん違うのです。1号坑は右軍、2号坑は左軍、そして、3号坑は指揮部となっているそうです。

 兵馬俑軍団の編成について、兵馬俑博物館の李乃夫総工程師は「左軍と右軍は均整のとれた配置ではなくて、軍隊の種類にしたがって並べてあります。例えば、右軍、すなわち、一号坑には主に歩兵と馬車を扱う車兵ですが、二号坑には歩兵や車兵それに騎兵などを主としています。一号には騎兵は見つかりませんでした。また、三号坑は警備の隊列で構成されていて、二人が向かい合って立っていて、真ん中は人を迎える道となり、まるで、警備部隊のようです。」と語りました。

By whenis , 3 5月, 2018

秦の始皇帝は生前中国を統一した偉大な皇帝です。死後にも、生前に持っていた物をすべて地下に持ち込み、これまでにない豪華な陵墓を建てました。60平方キロに及ぶ始皇帝の冥土は、始皇帝がいた都ー咸陽を真似して作られたのですが、内の城壁、内城と外の城壁、外城もあり、域内にはたくさんの副葬坑があります。これまで、本当の意味の考古発掘は行われていませんけど、実験的な探測によって、すでに大きな発見がありました。

 兵馬俑は地下におよそ2000体ぐらい埋葬されたあと、前世紀の1974年にやっと発見されたそうです。実は「やっと発見した」という言い方は正しくないかもしれません。昔もきっと発見したことがあったのでしょうが、ただ発掘をしなかったといったほうが正しいでしょう。兵馬俑を発掘した際に、漢の時代から近世までの貴族や庶民のお墓も、その範囲内に見つかったそうですので、きっと昔にも兵馬俑を掘り出した人がいるかもしれません。