中国茶の歴史

中国茶の歴史

By whenis , 23 1月, 2020

就要放假了。

Jiùyào fàng jià le.
もうすぐ休みになります
“就要”は「もうすぐ」「まもなく」という意味で、文末に“了”を伴って「もうすぐ~する/なる」という文を作ることができます。近い未来に発生することを表すには、“就要~了”の他に“要~了”(そろそろ~する/なる)という言い方もあります。

我把手机放在书包里了。

Wǒ bǎ shǒujī fàngzài shūbāo li le.
私は携帯電話をかばんに入れました
前置詞“把”を使って目的語を動詞の前に持ってくることによって、その目的語を移動させたり、目的語に処理を加えたり、何かの結果を生じさせたりすることを強調することができます。“把”を使う構文では、動詞の部分には補語や助詞“了”など何らかの付加成分が必要になり、目的語は話し手と聞き手の双方が何を指しているかわかっている、特定のものである必要があります。
By whenis , 23 1月, 2020

仕事のことや、恋、家族などで、あなたは人生の迷路に迷い込んだことがありますか?そんな時に、

 (人之初,性本善。性相近,习相远。子曰:有朋自远方来,不亦乐乎?人不知而不韫,不亦君子乎?。。。天行健,君子以自强不息。)暗闇を灯してくれる明かりがあります。先人の知恵を借りて、新鮮なエナジーでリフレッシュしてみませんか?

 NIHAO!ご機嫌いかがでしょうか。4月からスタートする新しい番組「古典エナジー」、担当はわたくし、周莉です。

 中国は5000年の歴史があります。歴史に生きる先人は数え切れない書物を残し、その思想の真髄を私たちが今でも引き継いでいます。また、いつか知らないうちに、私たちに忘れられた宝もいっぱいあります。この番組では、今でも活用できるそんな先人の知恵をもう一度掘り出して、皆さんと一緒に★みたいと思います。

 番組は二つのコーナーで構成します。パート1は、「古典サプリメント」と名づけました。毎回、1つのテーマを決め、古典の教えを皆さんと共有したいと思います。

 そして、パート2では、パート1で取り上げたテーマをめぐって、現代人の視点で見直し、いろいろ雑談をします。

By whenis , 22 1月, 2020

子路

 孔子の弟子たちは、「仁」や「孝行」、「政治」、「言語」など、人によってそれぞれ長けたところが異なります。子路が政界で活躍していた人物の一人です。子路は姓は仲、名は由(ゆう)、字は子路といいます。また、別の字は季路ともいいます。孔子より9歳年下です。孔子に最も愛された弟子が顔回というなら、最も可愛がられたのはこちら、子路です。子路の生活を名詞や形容詞でまとめて見ますと、勇敢や単純、一本気などでしょう。

 子路は貧しい家に生まれ、若いころは町の暴れん坊でした。孔子と始めて会った時、剣を使い暴力を振舞ったと言われています。孔子は礼儀で子路を感動させました。その後、子路は孔子のそばでボディーガード的な役割を果たしていました。儒家である孔子派の中で異色な存在ですね。愉快な豪傑って感じでしょうか。子路が一番早く孔子についた人間ですから、弟子といっても実は孔子の親友のような存在でもあります。孔子にはよく叱られますが、逆に孔子に対してずけずけとものを言ったり、言葉を返したりしたことがあります。

By whenis , 18 1月, 2020

栄華を極めた後、不老不死の霊薬を求めた秦の始皇帝も、結局寿命に勝てず、紀元前210年、ついに死去しました。遺言では、太子の扶蘇を位につけよということでしたが、丞相(じょうしょう)の李斯や側近の宦官(かんがん)趙高などは、自らの利益を守るため、賢い太子扶蘇のかわりに、始皇帝の遺言を偽り、幼い子の胡亥を立てて皇帝にしました。秦二世です。

 その後、趙高は競争者の李斯も殺し、丞相の座にのし上がり、実権を握るようになりました。それでも、趙高は満足が行かず、皇帝の胡亥に取って代わろうと企むまでになりました。ただ、そのためには、宮廷の大臣のうち、どのぐらいの人が自分の言いなりにするか、また、どのぐらいの人が反対するかを確かめなければなりません。すると、趙高はまことに奇態なテストを考え出しました。これによって、自分の威信を試すと同時に、自分に従わない人を明らかにできます。

 ある日、趙高は鹿を二世皇帝にたてまつり、笑いながらこう言いました。

「陛下、いい馬を献上いたします」

 二世はそれを見たら、ぷっと笑い出しました。

 「いやいや、丞相は間違ってるぞ。鹿だろ?」

 それでも、趙高は顔色を変えず、平気にこう言いました。

By whenis , 12 1月, 2020

――学生時代デキの悪かった人が教師になってもいいの?

 "青出于藍而勝于藍"「 青は藍より出でて藍より青し」

 この言葉は、今から2000年前に、中国の戦国時代の思想家、荀子(じゅんし)が学問の重要性を説明するために使った言葉です。青色の染料は藍(あい)という草から作られますが、その色は藍という草の色よりもさらに青い。つまり、もとになった物よりも、それからできた物の方が優れている。学問も積み重ねによって、さらに発展するということを表します。

 そのほかにも、中国ではこれと似たような意味を表す言葉が多くあります。

 "教学相長"「教学あいちょうず」。人に教えることと、人から学ぶことは、互いに作用しあうという意味です。

By whenis , 5 1月, 2020

中国では、昔から伝わる儒教の教え「三字経」には、こんな話があります「養不教、父之過」

これは直訳すれば、「養いて教えざるは父親の過ちなり」。今の言葉に言い換えますと、子供を生んでも躾をちゃんとしなければ父親の過ちだ。昔、中国の女性は社会的な地位が低く、女性は学問や知識、才能がないからこそ、家庭にふさわしいという伝統な道徳観がありました。子供の教育はもっぱら父親の責任といわれました。今は男女平等ですから、今風に言うと、「子供のしつけがよくないのは、親のせい」。この方がより適切なんじゃないかって思います。

By whenis , 4 1月, 2020

解語の花

 「解語の花」文字通り、言葉が解かる花。ここでは花は女性のたとえです。つまり、言葉を理解する美しい女性ということです。

 この言葉は元来、中国の唐の時代の有名な美人、楊貴妃のたとえです。楊貴妃は日本でもよく知られているようですね。玄宗皇帝の寵愛を受け、皇帝は彼女を喜ばせるために、彼女の大好物のライチを、早馬に乗った使いに、今の広東から西安まで、運ばせていました。二人の熱愛を描く詩歌や伝説など、中国にはいっぱい残されてきました。この楊貴妃は、「安史の乱」で、兵士たち怒りを鎮めるために絞殺されたと言われるんですが、実は生き延びて、最後に日本にたどり着いたという驚きの伝説もあります。

 楊貴妃に由来する「解語の花」ですが、唐の皇帝と妃たちが住む宮殿には、太液池という池があります。この池には、白い蓮の花が咲き乱れています。ある日のこと、唐の玄宗皇帝は、この池のほとりで宴会を開き、皇族の人たちと一緒に、蓮の花を観賞していました。幻想的でとても美しかった蓮の花に、人々は見とれて、この花を誉め称えました。すると、玄宗は微笑んで、そばに立っている妃を指差しながら、こう言いました。

By whenis , 4 1月, 2020

「桃源郷」は、今からおよそ1600年ぐらい前に、中国の晋の時代の詩人、陶淵明が「桃花源記」に描いた理想郷です。詩人、陶淵明はその詩、「桃花源記」ならびに序の中で、桃の花に囲まれた別世界を描きました。現在では、桃花源記の詩より、その序文のほうがよく読まれています。

 「桃源郷」という言葉は、日本でもよく使われています。でも、その出典が中国の詩だということを知っている人はどのくらいいるでしょうか?中国では、中学二年生の国語の教科書に載り、暗記を要求されるので、広く知られています。  

 では、ウィキペディアの訳文を引用して、その内容をご紹介しましょう。

 晋の太元年間(376年 - 396年)、武陵(湖南省)に漁師の男がいた。ある日、山奥へ谷川に沿って船を漕いで遡って行った。どこまで行ったか分からないくらい上流まで来ると、突如、桃の木だけが生え、桃の花が一面に咲き乱れる林が両岸に広がった。その香り、美しさ、花びらが舞う様子に心を魅かれた。

By whenis , 3 1月, 2020

夏の名物と言えばやっぱりお化け、怪談、ホラーですよね!映像コンテンツに関する調査によりますと、ホラーを見ると涼しくなると回答した人は38%で、体感温度がなんと平均4.9度も涼しくなると感じているということです。夏になると、特に、蒸し暑い夜、無性にホラーや怪談映画など見たくなる人が、大勢いると思います。

 中国では昔、仙人や狐鬼(こき)、妖怪などを描く怪談が多く伝わっていました。その中で、一番有名なのは、清の時代の怪異小説集、「聊斎志異」です。作者は、蒲松齢です。小説の内容は仙人、幽霊、狐狸の怪異譚で、当時世間で口から口へと伝わっていたものを筆記してまとめたものです。491篇の短編小説から構成されています。

 私は小学5年生の時、古文の勉強として、原文を読みました。その人間界と交錯していた怪異の世界に惹かれながら、背中に冷や冷やと感じた覚えがあります。小説に書かれている話は、さえない受験生のもとに美女に化けた狐やら幽霊やらがやってくるというものが多いです。神秘さや不思議を感じますが、人間よりも善良な狐や幽霊が多いからでしょうか、あまり怖くありません。

 その中で、珍しく本当にゾッとする話もあります。「古典エナジー」、今回は、この真夏の暑さを吹き飛ばすために、「聊斎志異」の中であの最もゾッとする話をご紹介します。

By whenis , 1 1月, 2020

古典エナジー」、今月は、清の時代の怪異小説集、「聊斎志異」に載った話を紹介しています。怪談を聞いて涼しくなってもらおうと言うことで、前回は、ぞっとする話し、「画皮」を紹介しました。いかがでしたか?

 今回では、怖くない話、狐が美人に化けて、恩返しをした話、「小翠」をご紹介します。「小翠」は、狐美人の名前です。

昔、中国の南の方に、王太常(おうたいじょう)という人がいました。まだ小さかった頃のある日の昼、ベッドで寝ていた時、空が曇って暗くなり、大きな雷が鳴りだしました。この時に、一匹の狐が部屋に入って来て、ベッドの下に隠れました。暫く立って雨がやみました。そして、ベッドの下にいた狐はすぐ出ていきました。

 数年後、王太常は科挙試験に合格し、侍御(じぎょ)という官職に昇進しました。そして、王は結婚し、元豊(げんぽう)という子供を授かりました。