黄帝、蚩尤と戦う・民間物語
皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。
私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。
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Submitted by whenis on Fri, 07/17/2009 - 12:47
いまから数千年前、中国の黄河、長江の流域には多くの氏族や部落が集り住んでいた。中でも黄帝は黄河流域で最も知られた部落の首領で、もう一人の有名な首領が、黄帝の兄弟である炎帝だった。一方、長江流域には九黎族という部族がいて、その首領は蚩尤といい、非常に強かった。
この蚩尤には八十一人の兄弟がいて、彼らはいずれも人間の顔と獣の体を持ち、銅や鉄のような堅い体とすごい力の持ち主だった。彼らは刀や弓など各種兵器の製造を得意とする。蚩尤は常にその強大な部族を率いて、他の部落に侵入したりしていた。あるとき、蚩尤はなんと炎帝の領地に進入したので、炎帝は兵を挙げて抵抗したが、蚩尤には敵わず、大敗したのである。そこで炎帝は、黄帝の支配する豚鹿に逃げ込み助けを求めた。黄帝も前々から蚩尤という災い者を消そうと思っていたところなので、早速、各部落の首領と連合し、豚鹿の田野で蚩尤と大決戦を繰り広げた、これがかの“豚鹿の合戦”である。
この合戦の初期、蚩尤は優れた武器と勇ましい兵士たちに頼り、勝ち戦を続けたが、その後、黄帝は竜や不思議な獣たちを招いて参戦させた。蚩尤の兵士たちは強いものの、これら神獣たちが加わった黄帝の軍隊を相手にしては、力及ばず逃げていった。
そして黄帝がこれら軍隊率いて敵を追い続けていると、急に空が真っ暗になり、濃い霧が立ち込め、狂風が吹き荒れ、雷が鳴り響き、大雨が降り出して、黄帝の軍隊はそれ以上追い続けることができなくなった。実は、蚩尤が“風の神”と“雨の神”を呼んで参戦させたからある。黄帝もこれには負けまいと“日照りの神”に助けを求め、暴風雨でこれに応戦させた。こうして一瞬のうちに、風雨が止み、空は晴れ戻った。だが蚩尤はまた妖術で大霧を出させ、黄帝の兵士を迷わせた。そこで黄帝は方向を示す北斗星を標しとして、一台の“指南車”を造って軍を導いて霧から脱出させた。こうして多くの激しい戦闘のあげく、黄帝は蚩尤の八十一人の兄弟を相次いでうち殺し、最後は蚩尤を生け捕りにしたのだ。そして黄帝は鎖で蚩尤を縛り、死刑に処したが、死後の蚩尤がまたも害をなすことを恐れ、彼の首と体をそれぞれ互いに遠く離れた場所に埋めたので、蚩尤を縛っていた鎖は荒山に棄てられてて楓の林と化し、一枚一枚の血の色をした赤い紅葉は、かの蚩尤の飛び散った血痕が変わったのだ。
蚩尤は死んだ後も、その勇まさは尚も人々に恐れられた。黄帝は蚩尤の画を軍旗に描いた目的は、味方の軍隊が勇敢に戦うことを励ますと同時に、刃向かう敵の部落に恐怖を与えるためでもあった。後に、黄帝は多くの部落の支持を得て、やがてはすべての部落の首領となったのである。
黄帝は多才であり、宮殿を建造したりしたほか、彼には兵車、兵船や五色の衣裳など多くの発明や製造がある。その妻の縲祖も、発明家であった。本来なら、カイコは野生であって、人々はその使い道を知らなかったが。縲祖が人々に養蚕、糸繰りや機織を教え、これによって、中国に絹織物の文明が生まれたのである。また黄帝があずまやを建造すると、縲祖は雨の日でも自在に移動できるあずまや――傘を発明した。
中国古代の神話や伝説はみな黄帝を推し崇め、後世の人々は黄帝を中華民族の先祖とし、自分たちをその子孫と見なしているみ。炎帝族と黄帝族は元から近親関係にあったので、のちに両者を融和し、中国人は自分のことを炎黄の子孫と呼んでいる。神話に現れるこの共同の祖先を記念するために、中国人は黄河沿いの陜西省の黄陵県北部にある橋山に“黄帝陵”を建てた。毎年の春に、世界各地の中国人の代表がここに集まり、共にこの中華民族の先祖を参拝している。
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