中国茶の歴史

中国茶の歴史

By whenis , 21 3月, 2018

炎帝と黄帝、古代中国には伝説上の二人の有名な皇帝がいたそうです。民族の祖先です。この二人の名前を縮めて「炎黄」。仲間うちで、「やっぱり中国人だ」「中国人は一番さ」といったニュアンスの時に使われるようです。日本でいうなら「我こそは日本男児」というところでしょうか。先日、人民日報に中国国際人材交流基金が主催する「炎黄賞」の受賞者が決まった、という記事がありました。「炎黄」はいまの中国で脈々と生きているのです。

 今回の「博物館めぐり」は、炎黄芸術館を訪ねましょう。北京の北、第四環状道路の安慧橋からアジア大会選手村(亜運村)の方へ、北へ300メートルほど進んだところにあります。唐宋の時代の雰囲気を持つこぢんまりとした建物です。

 それもそのはず、この芸術館は人民芸術家といわれた画家・黄冑が個人で作り上げた美術館です。館長は夫人の鄭聞慧さんです。鄭さんによれば、最初は、「華夏」とか「東方」とかいろいろ候補にあがりましたが、本人の名前も黄、そして中国人に親しみを与える炎をとり、いまの名称になりました。

 さて、黄冑さんはどんな画家だったのでしょう。1925年河北省の生まれ。鄭さんや家族によると、ロバをはじめ動物の絵を好み、水墨画の技法で人物画を描くのを得意としました。五四運動で破壊された中国画の伝統を復活させた功労者でもあります。

By whenis , 20 3月, 2018

北京の中心部に入るには、いくつかの門をくぐらねばなりませんでした。東直門、西直門など多くの門は、いま、地下鉄2号線の駅名となって、その名残りを留めています。地下鉄2号線は、北京駅から時計回りで行けば、前門、復興門、雍和宮などを回って戻ってくる環状線です。乗り間違いの心配はないので、北京観光の折には、ぜひ試してみるといいでしょう。

 さて、その宣武門のあった南の地域は、宣南と呼ばれ、古くから文化人や学者、そして京劇の俳優が住み、また商業の中心としても栄えました。故宮の一帯が皇帝やお役人の世界だったとすれば、宣南は庶民文化が花開いたところでもあったのです。

 その歴史が一目で分かるところが、北京宣南文化博物館です。もともとは、長椿寺というお寺でした

 お寺ができたのは1592年、明の時代です。時の皇帝は、長寿と健康を祈って、「長椿寺」という名前を贈ったそうです。そういえば、椿はなかなか枯れることがなく、いつまでも青々としていて、日本でも長生きのシンボルになっています。回族がたくさん住む牛街に通じる道は長椿街ですが、この名前もお寺から来ています。

By whenis , 5 3月, 2018

楽山大仏は、凌雲大仏とも呼ばれています。世界最大の仏像だとされるこの大仏は中国四川省楽山市の南、岷江東岸の凌雲山にあり、大渡河、青衣江と岷江が合流する地点に臨み、山であり、仏像でもあり、3世代の職人が約90年かけて完成させたものです。

 楽山大仏は山を背に建造され、仏像の頭部が山頂と同じ高さとなり、両手が膝の上に置き、両足が河に踏む形となっており、均整のとれた体つきと厳かな表情を見せています。仏像の彫刻は細部に至るまで精巧そのもので、古代職人の知恵を感服させると同時に、畏敬の念を覚えさせます。

 「楽山大仏はスフィンクスやネイル河谷にある王家の谷など、世界の他の石刻と匹敵できる」、「こんなに奇妙な自然と文化の景観があるなんて不思議に思う」と、国連世界遺産委員会の上級顧問を務めるジム・サンセール博士は1996年に楽山大仏を見学した際にこのように語りました。彼の目から見た楽山大仏は世界に公認された著名な石刻芸術の逸品と匹敵できるものだということです。

By whenis , 4 3月, 2018

中国の著名な思想家、そして教育家、孔子。「孔子学院」の名をつけた学校が、世界各地に設けられ、いまなお、孔子は中国文化、中国語教育の先兵役を担っています。ふるさとは、山東省の曲阜で、ここでは毎年、盛大な孔子祭りが行われます。

 その孔子を祠り、最高教育の場となった所が北京にあります。「孔廟、国子監」と名づけられた博物館を紹介しましょう。場所は、地下鉄2号線の安定門駅から歩いて15分ほど、ラマ教の有名なお寺・雍和宮はすぐ近くにあります。  

国子監街という東西に走る古い道を捜してください。真ん中あたりに「国子監」と「成賢街」と書かれた鳥居のような門があります。中国では牌楼と呼んでいます。この鳥居に挟まれた部分が、「孔廟、国子監」というわけです。ところが、今は大規模修理の真最中で、建物はテントなどで覆われて中に入れません。近代になってからは、1930年代と50年代に続く三度目の大規模な工事で、来年の7月にすべてが終わります。

By whenis , 20 7月, 2017

「火炉」はコンロ、ストーブの意味で、「城市」は都市。「火炉城市」でコンロ都市、夏に極めて暑い都市を指します。ほとんど、長江流域及び華北地域、黄河―淮河一帯に集中し、暑さの順位は時代によって変更もあります。

 民国時代の「火炉城市」はいずれも長江沿いにあり、重慶、武漢、南京、長沙だとされていました。

 新中国成立後、福州、重慶、長沙、南昌、杭州、上海と南京が「火炉城市」とされました。

 しかし、これらは民間での言い方で、科学的な根拠はありませんでした。2012年8月、国家気候センターが1981年から2011年まで31年間の気象観測データから、中国の「火炉城市」トップスリーを選びました。それは重慶、福州と杭州でした。

 最近では、雲貴高原を除いて、中国の長江緯度地域にある都市の夏は気温が高く、湿度の高い日が長期間続く特徴があるほかに、河北地域の北京、天津、石家庄と黄河緯度地域の太原、西安などの北方都市にも気温が高く、湿度も高い日が増えてきました。

 このような気象の変化は温暖化による現象だとされ、人々の環境意識を喚起しなければなりませんね。

By whenis , 6 7月, 2017

西洋人がクリスマスを過すことと同じように春節は中国人にとって一年の中で最も盛大な祝日である。時代の移り変わりに連れて、春節の内容が変わりつつ、人々が春節を祝う方式も変わってきた。しかし、いくら変わっても、中国の人々の生活と意識における春節という地位に取って代わるものが無いだろう。

春節はすでに4000年の歴史があり、当時は春節と言わず、固定の日日も無かった。紀元前1000年の時、人々は春節を「年」と言った。年は当時豊作の意味でした。豊作をかちとると「有年」、或いは「大有年」と言われた。

民間の風俗によると、春節は旧暦の12月23日から正月の15の元宵祭りまでで、約3週間にわたり、12月30日の大晦日と正月の一日が最も盛大に過す慣わしだ。

By whenis , 5 7月, 2017

黄梅劇はもともと「黄梅劇」もしくは「采茶劇」と呼ばれ、18世紀末、安徽省、湖北省、江西省の隣接地帯で生まれた民間芝居である。その中の一流派が安徽省懐寧県を中心とした安慶地区に拠点を移し、地元の民間芸術と結びついた。彼らは現地の方言で歌い、独自の特徴を形成して、「懐腔」もしくは「懐調」と呼ばれた。これがつまり、今日の黄梅劇の前身である。

19世紀半ば、さらに「青陽腔」や「徽調」の影響を受け、正規の正本劇が生まれた。黄梅劇は地方劇の一つとして、徐々に世間から知られ、認可された。初期の黄梅劇は、歌と踊りを併用することが特徴で、ありのままの生活模写に力を入れ、特に決まった型はなかった。一部の芝居(例えば『天仙配』の「分別」というくだり)には立ち回りのしぐさもあったが、それは青陽腔や徽調の影響の名残であった。

当時の黄梅劇の役者は大部分が地元の農民もしくは手工業者で、服装や舞台用道具、楽器の銅鑼や太鼓も寄せ集めのもので、公演前に観衆から借用したりしていた。この段階までの黄梅劇は基本的に農村の労働者の娯楽や発散の場としての文芸にとどまっていた。

By whenis , 5 7月, 2017

「史記」は中国史上の偉大な歴史学の著書であり、紀伝体の文学著作でもあり、後世の歴史学と文学に深い影響を与えている。「史記」は紀元前1世紀の西漢に著され、中国の上古時代から西漢まで3000年にわたる政治、経済と文化の歴史を記している。「史記」は中国初の人物を中心にした紀伝体の通史であり、中国の紀伝体文学の始祖でもある。

By whenis , 4 7月, 2017

漢方医の基礎的理論は人体の生命活動及び病気変化などの規律をまとめた理論で、それは主に、陰陽、五行、精神の集中力、内臓の様子、経絡などの学説を含み、また、病気の原因、診断法、弁証、予防、療養などの内容を含んでいる。

陰陽は中国古代哲学の範畴に入っている概念である。人間は矛盾という現象を通じて、矛盾という現象から陰陽の概念を作ってきた。また、陰陽二極の消長関係を利用して物事の運動と変化を解釈している。漢方は陰陽の対立と統一の観点を利用して人体の上下、内外などの各器官、そして人体と自然及び社会などの外来の要素との複雑な関係を説明している。陰陽の対立と統一の相対的バランスは、人体の正常活動を維持し保証する基礎であり、陰陽の対立と統一の関係が失調或いはアンバランスしたら、人体の疾病発生をもたらし、生命の正常の活動を影響とされている。

運気説とは、五運六気とも呼ばれ、自然界の天文、気象と気候の変化が人体に健康と疾病をもたらすことを研究する学説である。五運には、木運、火運、土運、金運と水運があり、自然界の1年にある春、夏、長い夏、秋、冬という気候の循環を指す。六気とは1年中の風、寒、暑、湿、燥と火という6つの気候要素である。運気説は天文と暦法の補助変数に基づき年次気候の変化と疾病発生の規則を推測するものである。

By whenis , 4 7月, 2017

京劇には200年余りの歴史がある。その由来はいくつかの古来の地方劇に遡り、中でも、とりわけ、18世紀に流行っていた中国南方の地方劇「徽班」の影響が大きい。1790年、最初の徽班が上京し、皇帝の生誕祝賀公演に参加した後、いくつもの徽班が相次いで上京した。徽班は流動性が強く、他の芝居の演目や表現方法を吸収するのに長けていた。当時から北京には数多くの地方劇が集まっていたため、上京した徽班は、他の地方劇を積極的に取り入れ、その芸術性が著しく向上された。その後、19世紀末~20世紀始め、数十年をかけて京劇が形成され、中国最大の演劇文化となった。

京劇の演目はたいへん豊富で、役者の人数もかくのごとく、劇団の数や観衆の数などのいずれも中国で一番の影響力を持つ。

京劇は「唱」(歌い)、「念」(読み上げ)、「做」(演技)、「打」(立ち回り)、「舞」(踊り)を一体に、決まった型を通して物語を展開し、人物を描写する総合的演劇芸術である。京劇の役柄は主に生(男性)、旦(女性)、浄(男性)、丑(男性も女性も兼ねる)の四つに大別される。このほか、脇役の役柄もある。