中国茶の歴史

中国茶の歴史

By whenis , 4 9月, 2019

鴻門の会。これは楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都、咸陽の郊外で会見した話です。劉邦を殺す最高の機会を、項羽は逃してしまいました。項羽は劉邦を殺すチャンスに恵まれましたが、それをしっかり掴むことができず、とうとう、楚と漢の戦いが始まってしまいました。結局、最後に、項羽は劉邦に垓下にまで攻められ、自殺してしまいました。

 鴻門の会は劉邦にとって、まさに生死を分ける瀬戸際と言えます。項羽との直接対決の場となりました。これは司馬遷の『史記』の中でも最も有名な一節です。

 その背景

 前回は、項羽が秦の主力部隊と遭遇し、少数で多数に臨んだ鉅鹿の戦いで勝ち、大活躍したことをお話しましたね。その時に、劉邦は何をしていたかと言いますと、別働隊として強力な敵と遭遇することなく、咸陽に到着し、秦の王を降服させ、関中一帯を占領しました。

 その前に、楚の懐王、この懐王というのは、あくまでも叛乱を起こし、秦を覆すために、項梁と項羽が立てた傀儡王ですから、実権はもちろん、項羽に握られています。楚の懐王は「関中を征した者を関中の王とする」と将軍たちに約束したことがあります。

By whenis , 30 7月, 2019

藍采和は四川省の出身です。韓湘子と似ているところがあって、こちらも普通の人がちょっと理解できない風変わりな人です。

 伝説によりますと、藍采和はいつもホームレス風のいでたちで、片方に靴を履いて、片方が裸足だったりするということです。夏に何枚も下着を着てそれでも寒いと言ったり、冬に薄着で雪に横たわって、暑い暑いと言ったり、その身体から水蒸気のようなものがプンプン出ているということです。

 酔っ払うと、街で長い拍子木を持って、チョーン、チョーンと打ち合わせて、ふらふらしながら、大声で歌います。まるで発狂しているように歌っていますが、実際はそうではない。歌詞は気ままに即興で作られたもので、それをよく聞きますと、俗世間から抜け出した仙人の世界観が潜んでいるということです。

 こうして歌うことで、見ている人がお金をくれて、そのお金で旅を続けました。藍采和はもらった金を紐に通して引っ張って歩きます。酒に使ったり、貧しい人に挙げたりしました。子供の時に藍采和を見た人が、年寄りになって再び会いました。藍采和はまだ昔と同じような容貌で全然変わらないと言います。

By whenis , 12 7月, 2019

韓湘子は唐の時代、韓愈という有名な文学者の兄弟の孫だと言い伝えられています。幼い頃に親が亡くなったため、韓愈に育てられました。

 韓愈のほかの子弟たちは皆、学問に励んでいますが、韓湘子だけ読書が嫌いで、酒ばかり飲み、ぶらぶらしている放蕩者でした。

 20歳の頃、親戚の家を訪ねたはずの韓湘子は、「山や河川などすばらしい大自然に惚れちゃった」と言い残して、実家に帰らず、そのまま行方不明になりました。20年後に、ようやく実家に戻ってきました。ボロボロの服を身に纏い、普段の行動も普通の人と違います。

 韓愈は学校に入れ、生徒たちと一緒に勉強させました。しかし、韓湘子は討論会で一言も話しません。逆に、下僕とギャンブルをやったりしていました。酒を飲み、泥酔すると、馬小屋で3、5日寝たり、道端で寝てしまったりしていました。

 韓愈は聞きました。「人それぞれ長所がある。小売屋でも自分を養う能力がある。君はこのままだと、将来、何ができるか」。

By whenis , 17 6月, 2019

呂洞賓は山西省出身の知識人です。しかし、今の大学入試に当たる官吏登用試験を合格した時、すでに64歳でした。出世の道、あまり順調ではありませんでした。

 恐らくそのときの呂洞賓にとっては、もう出世ということをほぼあきらめたのではないかと思います。ある日のことです。呂洞賓は都である長安(現在の西安)の町に来て、ある居酒屋で仙人の漢鐘離と会いました。

 漢鐘離は仙人となるいい原石である呂洞賓に声をかけましたが、すぐに弟子として認めたわけではありませんでした。呂洞賓のほうは、漢鐘離に啓発され、すぐに決心して、道にたどり着こうとしました。しかし、漢鐘離は、「あなたはまだ志を完全に決めていない。この俗世間から離脱するために、更に何度も生まれ変わらなければならない」と言って、その場を去って行きました。

 漢鐘離は消えましたが、呂洞賓はあきらめませんでした。すぐに仕事をやめて隠居し、道を学びました。

 大きな決心を示した呂洞賓を、仙人である漢鐘離はきっとどこかでしっかり観察していたんです。その決心と悟り具合を試すために、漢鐘離は10の場面を仕掛けました。

 最終的には、呂はテストとなる10場面を全部クリアし、漢鐘離の弟子となり、更に、仙人になりました。

By whenis , 16 6月, 2019

漢鐘離は本名ではありません。本名は鐘離権と言います。後漢時代に生まれたので、時代の名前、漢を苗字の前につけられました。

 父親は後漢の総大将です。兄も将軍です。

 鐘離権の誕生についても、神話伝説もありますよ。その母親が出産するところに、巨人が大またで入ってきて、「わしは大昔の神様だ、ここに生まれるはずなので来ている」といいました。すると、まぶしい光が火のようにきらめく中に、鐘離権が生まれてきました。

 そもそも神様の生まれ変わりですから、小さい頃から目立つ存在でした。生まれた時に、すで3歳の子供と同じような大きさでした。大人になると、美男子になりました。

 家庭環境もいいし、鐘離権の人生は順風満帆に見えますが、あまりにも目立つ存在でしたから、嫉妬する人もいます。当時、現在のチベットに当たる吐蕃で、叛乱が起こりました。鐘離権は将軍として出征しました。しかし、大きな権力を持つ大臣、梁冀という人が、大きな手柄を取られるとまずいと、鐘離権を嫉妬して、年老いた人や身体の弱い人からなる軍隊2万人を繰り出しました。

 そのような2万人の軍隊を率いて、勝つわけないじゃないですか!まもなく敵軍に破れ、鐘離権はたった一人で谷に逃げ、やがて山奥のある村に来ました。

By whenis , 14 6月, 2019

これまで取り上げた八仙の人物は、生まれが漢の時代だったり、唐の時代だったりでしたが、曹国舅だけ、唐の後の宋の時代の人物です。

 国舅とは、皇后の兄や弟であることを示す尊称です。八仙の中においては、正真正銘の貴族です。本名は曹玘(そうき)。字は景休(けいきゅう)と言います。どうりで曹国舅は八仙図鑑の中で、一番豪華な衣装、官僚の姿をしています。

 曹国舅は八仙の中で、一番地位の高い人物でもあります。地位が高いですが、彼は豊かな生活に溺れ、貴族の特権を利用することが好きではありません。身分が高いのに、平常心でいられるのはちょっと珍しいですね。

 もちろん、曹国舅一族はみんながみんな、そんなに潔白な人間であるはずがありません。その弟は、皇后の親族であることをカサにきて、農民の土地を奪ったりして、悪行を繰り返していました。

 曹国舅はしょっちゅう弟を忠告しましたが、向こうはまったくその話を聞いておらず、ひいては自分の兄を敵視するようになりました。

By whenis , 12 6月, 2019

この八仙人を仙人チームだとすれば、一番最初に仙人になった李鉄拐は、いわゆるリーダーみたいな存在です。 苗字は李。下の名前は玄といいます。鉄拐というのは、鉄の杖という意味で、片方の足が不自由で、鉄の杖を使いますので、その特徴を捉えて、李鉄拐と呼ばれるわけです。

 李玄はもともとがっちりとした体格の立派な男性でした。そして、「八仙東遊記」によりますと、頭もよく、20歳ごろには、すでに俗世間の事柄に興味がなく、仙人になる道に没頭していました。

 李玄は独自の考えを持っています。「天地は空しい。人生は幻想に過ぎない。財産や名声は心を惑わす毒である。たとえ皇帝となり、世界の富をすべて有したとしても、それは所詮身体以外のものであり、雲のようなものに過ぎない。無から有が始まり、有はまた必ず無になる。人生はまるで夢のようなものだということを悟らずに、ただ自分のこの身体を世に放浪させていいのか!」と、主張しています。

 よく考えるとその通りですね。確かに人間にとって、財産や名声はいくらあっても、死ぬ時には手ぶらで死ぬわけですもんね。だから、自分がこの世に存在した証を残すように、みんな一生懸命頑張っています。でも、李玄の夢は、この世で頑張るのではなく、仙人になるというある意味大きな夢です。

By whenis , 11 6月, 2019

中国では、日本の七福神と似た八仙人の伝説があり、各地で広く伝わっています。日本の七福神は、福をもたらすとして、古くから信仰されている七人の神様です。一般的には、恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人と福袋の七人です。その出身と言いますと、福禄寿、寿老人と福袋三人が中国出身だそうです。また、七福神の代表的な図柄としては、「宝船」がありますが、これは、中国の「八仙渡海図」が元になったという説が有力です。

 中国の八仙、八人の仙人とは、李鉄拐(りてっかい)、漢鐘離(かんしょうり)、呂洞賓、(ろどうひん)、藍采和(らんさいわ)、韓湘子(かんしょうし)、何仙姑(かせんこ)、張果老(ちょうかろう)と曹国舅(そうこっきゅう)の8人です。いずれも民間人から仙人になったもので、それぞれ、様々な伝説があります。中国では八仙人といえば、知らない人はいないほど非常に有名です。

 この8人の仙人はその出身や特徴により、それぞれ老、若、男、女、富み、権力、貧乏、低い身分を代表します。つまり、社会の各階層、あらゆる生活状態の人々を包括しています。八仙人の物語は、唐の時代から伝わりました。でも、構成人物が変わったりしています。明の時代になると、呉元泰という人が、『八仙東遊記』という小説を書きました。その小説によって、ようやく8人の名前が確定しました。

By whenis , 10 6月, 2019

その証拠に、曹操にはたくさん子供がいます。何と、息子だけでも25人いるんです!娘も6、7人ぐらいいて、合計30人を超えています。その25人の息子は、13人の女性が産んだものです。子供を生まなかった女性も含めて、名前が知られている曹操ガールズは、15人を超えています。それから、一夜ぐらい共に過ごした女性も入れれば、まあ、すごい数でしょう。一言で言えば、間違いなく好色男ですね。

 曹操は美人が大好きです。たまたま見かけた美人が気に入れば、その美人が未婚者か既婚者かというのも、まったく気にしないんです。曹操の妻には、人妻が多いです。逆に言うと曹操が人妻を好きだという言い方もありますよ。これらの人妻は、だいたい戦で撃ち取った敵将の妻だったり、なくなった将校たちの美しい未亡人などです。

 「英雄、色を好む」って言うように、やはり権力と情欲、色欲はとても関連性があるようですね。曹操の場合は、土地を征服すると同時に、女性も征服しようとしているんですかねぇ。

By whenis , 9 6月, 2019

好色のせいで、曹操は長男の曹昂、及び最愛の部下である典韋を失いました。ちなみに、典韋は三国武将の中で、とても有名な人です。武術だけ論ずるなら、1位は呂布、2位は趙雲、そして、第3位は、この典韋です。

 では、ご紹介します。

 曹操が荊州の張繍を征伐し、降伏させた。ある日の夜、曹操は酔っ払って、「この城には妓女がいないか?」と、甥の曹安民に聞いた。曹操の好みを熟知している曹安民は「この官舎でとても美しい女性を見かけた」と答えた。聞くと、それは、投降したばかりの張繍の戦死したばかりの叔父、張済の妻である。曹操は連れてきてくれと命令した。すると、女性がやって来た、確かに美しい。

 曹操はすっかり惚れ込んでしまい、女性も従順で男に従った。やがて、張繍はこのことを知って、激怒した。「ひどい!人のおばを弄ぶなんて、この俺を馬鹿にしているんじゃないか」と、曹操を不意に攻撃しようとした。

 しかし、曹操の護衛役に、武芸の優れた典韋がいる。張繍たちは典韋を恐れ、ある計略をたてた。酒宴を開いて、典韋を呼び、彼が酔っ払ったところで、典韋の使い慣れた武器を盗もとした。